Monday, January 31, 2011

ヒッチコック監督の「疑惑の影」をみて

闇にまぎれてbowyow cine-archives vol.82

1942年に製作されたこのモノクロ映画は、当たり前のことながら人間うわべだけで信用してはいけないよ、という教訓を地でいくような話です。

実際は恐ろしい凶悪犯人である叔父役には、「第3の男」のジョゼフ・コットン。そのオジサンにはじめはあこがれ、慕いながら、次第に生命の危険にさらされていく姪を演じるのがテレサ・ライトで、天国から地獄へと転回するこの2人の心理の綾をヒッチは舌舐めずりしながらこれでもか、これでもかとスリリングに描いていきます。

音楽は本作では名人デミトリ・ティオムキンが担当してスリルとサスペンスを盛り上げています。原題も邦題と同じですから、国際的な誤解を招かなくて大変結構です。

しかしもう2度と見ることもないでしょうね。


平然とシルバー席につく若者をふと殺したくなる冬の朝かな 茫洋

西暦2011年睦月 茫洋狂歌三昧

♪ある晴れた日に 第84回


Go ahead, Make my day!ドラ猫が見毛猫にいきまく冬の昼下がり

明らかに私のことを胡乱な奴と思っているはず二匹の猫

二匹の猫に見下ろされながら咳二つ

聖キリストにはならえなくとも楽聖のベートーヴェンならならいたいな僕

ゆるやかに円弧を描く村正の一太刀浴びてゴミリュウ仆る

青春を終わりし時代の行き止まりてんで恰好悪く死んじまうおれたち

生も暗く死もまた暗いそんな眼をしてこっちを見るなコン・リー 

転配はわが本意にあらずという人思い墓地歩みけり正月三日

和凛想静憩夢などと刻まれし墓碑ありてみな西方浄土に直立す

スタジオで全員帽子を被っている少女が変か変と思うこっちが変か

30%オフですよと朝8時から連呼させられている新宿の女

ユニクロで6足1000円の靴下を迷いつつ選ぶ小さなしあわせ

おいらはしょせん河原乞食そうおもいながら指揮せよ指揮者

お母さん自閉症ってなにと尋ねている自閉症の長男

愛と平和を歌うことなぞ迚もじゃないけど恥ずかしすぎて

いわれなく人の高み立つ人に訳も分からずお辞儀しているよ 

書いて書いてもトカトントン読んでも読んでもトカトントン

踊れ喜べ歌え魑魅魍魎の幸福な魂たちよ

おんなはすべてはじめは処女のごとく終わりは脱兎のごとし

ニューヨークヘラルドトリビューン!と叫びながら売っていた女の子
 
七年間細々続きし仕事なれど絶えてしまえば寂しかりき

えんやこらしょっとバイロイトに響き渡るウインフィルの咆哮 

パンテイは別になくても構わないわさよならモンテイパンテイ

道代の太腿文子の裏返ったアルトにぞくぞく

一〇年代の女優にはムラムラしないのに六〇年代の女優にムラムラ

けふも悲しい顔をしておった不老長寿の老人


元旦や何事も無き有り難さ

此岸より名優多き彼岸かな
 
野晒しや百尺竿頭一歩を進む

健ちゃんに行火を買って待っている

お父さんなんて自分のことばっかり

でんでん虫生きているって言ってみろ



初雪や書き込み少なきブログかな 茫洋

Saturday, January 29, 2011

朝吹真理子著「流跡」を読んで

照る日曇る日 第406回

ここに綴られている日本語表現がきわめて精妙でニュアンスに富み、これまで日本文学が蓄積してきた数多くの文化遺産の自由自在な引用から成り立っていることは間違いない。
また著者の文学的教養とその大脳前頭葉へのくりこみの錬度の高さは、本書の任意の頁のわずか一行の表現ひとつとっても明らかで、それが凡百のぼんくら作家どもの通常の文章を、粗野で洗練されない文飾と映るほどの出来栄えであることも否めない。
しかしそうであればあるほど、この人は、この無類の名文という武器を用いて、いったいなにごとを表白したいのかが、読めば読むほど分からなくなる。冒頭の一句から終止符までたしかに希代の美しくも繊細な詩文が羅列されているものの、行く川の水の流れの主体が誰であるのかを水に問うても返事が返ってこないように、著者本人をつかまえて
「いったいあなたはいかなる意図でこのような文章をまるで自動表記の機織りロボットのように垂れ流しているの?」
と尋ねても明確な返答はできないだろう。
無自覚で無意識のうちに書き下ろされた文章は、それが水のように透明で清冽であっても、いつまでも終わることにない文章表現の御稽古であり文学ごっこであり、あえていうなら修辞による自慰に類した行為にすぎない。
つまりこの文章にはHOWはあってもWHATはひとかけらもない。もっと正確に評せば、この小説のようなものは、なにをどう描いていいのかかがまだつかめていない未熟な文学少女の一習作に過ぎない。誰に何かを伝える意思もなく、ただただ蚕が白い糸を吐き出して己の裸身を繭の内部に閉じ込めようとしているだけのことで、このような文学以前の作文を珍重して、やれ新しい文学や文学者が誕生したなどと笛や太鼓で囃すのは、本人のためにも、世の中のためにもならないであろう。

30%オフですよと朝8時から連呼させられている新宿の女 茫洋

Friday, January 28, 2011

澤井信一郎監督の「Wの悲劇」をみて

闇にまぎれてbowyow cine-archives vol.81

澤井監督の、というよりは角川春樹の、薬師丸ひろ子による1984年製作の青春映画である。

夏樹静子の原作なぞはどうでもよいが、実際ここには当の春樹をはじめ、仲谷昇、三田村邦彦、南美江、三田佳子、世良公則、清水浩治、蜷川幸雄などなど往年の俳優たちが雁首を揃え、なかには新人女優高木美保のフレッシュな姿も見える。

彼らはいずれもこの映画のフレームの中で生き生きと動き回り、思いがけない生命の輝きを見せていることにいささかの感慨を覚える。あれから20数年の歳月が経過したにもかかわらず、当然のことながら三田も蜷川も異様なまでに若く、これに比べれば、いまの彼らは死人同然とすら思えてくるような、この不可思議なエネルギーの発露と奇妙な高揚感はいったいなんなんだろう? 

つまりここに封じ込められているのは、まぎれもなく80年代日本の微熱を保った時間と空間の奇妙なねじれ、あの魅惑的な糜爛(びらん)そのものである。
恋人への愛を抹殺し、先輩三田の清濁併せのむ生き方に倣って、女優への道を歩み始めた薬師丸ひろ子の苦渋に満ちたラストショットの裏側に、その後の私たちが辿ったほろにがい運命が透けて見えているのだが、そこへすかさずそこに流れてくる舌足らずの主題歌は、まるで彼女と私たちの青春時代への幽かな挽歌のように聴こえる。

「Wの悲劇」とは、私たちと私たちの国がその後陥ることになった取り返しのつかない悲劇のことだったのかもしれない。


スタジオで全員帽子を被っている少女が変か変と思うこっちが変か 茫洋

Thursday, January 27, 2011

山本薩夫監督の「氷点」をみて

闇にまぎれてbowyow cine-archives vol.80

1966年公開の大映映画で、原作は三浦綾子。当時の朝日新聞に連載されて話題になったが、いくら「汝の敵を愛せよ」をうのみにする正義漢?でも、自分の娘を殺した犯人の娘をわざわざ養女に迎えるような親(船越英二)はいないだろう。すべてはこの馬鹿な男とその友人の産婦人科が悪いのである。おかしいのである。私なら養女を迎えるどころかドスを呑んでその犯人を殺しにいくだろう。それが人間のノーマルな反応である。

こういう不条理な設定を考えるのは勝手だが、それをわざわざ小説や映画にする必要はないのではないでしょうか? 結局その娘陽子はリクエスト通りの犯人の娘ではなく別人の赤子だったわけだが、このクリスチャン作家は妙なプロットを無理矢理考えたもんだ。

そんな下らない映画なら見るのを止めればいいのだが、なにせ若尾文子と安田道代が出ているから、それにつられてとうとう最後まで見てしまった。

当然のことながらこの最初の無茶苦茶なボタンの掛け違いが、当の娘(懐かしの安田道代!)をはじめ、兄の山本圭、母親の若尾文子などに多大な苦痛と不安を与え、ついには決定的なカタストロフを迎えることになる。

たとえ親が殺人犯だろうが別人格のその子にはまるで無関係であっても、それを承知で平気で育てられるわけがない。娘が無邪気で性格が善良であればあるほど、夫婦の心の血は日に日に夥しく流されるようになるとともに、リアリスト山本薩夫の演出の餌食となる。

しかし私が思うに、この映画の登場人物のうち、終始いちばんまっとうな人物は妻ではないだろうか。その他は無邪気すぎる娘を含めて多少とも奇妙であるか異常な人物ばかりである。妻は最初は娘を溺愛し、真相を知ってからは娘をいじめたり、憎んだり、娘が好きになった好青年津川雅彦を誘惑しようとしたり、娘の首に手にかけようとしたりする、つまりはあまりにも普通の主婦なのに、原作者と脚本の水木洋子と監督は、よってたかって彼女だけを超悪役のように仕立てあげているのが、私には断じて許せないのだあ。

しかしまあそんな固い話はこれまでにして、妖艶無比な若尾文子の仇な姿と、父親の船越英二の目をくぎ付けにする安田道代(のちに大楠とおお化けする)のむっちりした肉体美も、このうえないご馳走でげす。

道代の太腿文子の裏返ったアルトにぞくぞく 茫洋

Wednesday, January 26, 2011

アンドリュー・ソルト監督の「イマジン」をみて

闇にまぎれてbowyow cine-archives vol.79

ご存知ビートルズのジョン・レノンの100時間におよぶインタビューと過去の映像を編集して完成したファン必見の1998年製メモリアル映画です。

リバプールのライブハウスでうろうろしていた彼ら4人組が世界のトップスターに成り上がった背後には、時代と音楽の先をよむに長けていた俊英プロデューサー、ブライアン・エプスタインの存在がやはり大きかったようで、彼が32歳で若死にしてからはもはやビートルズの解散は避けがたかったと思われます。

しかしこの映画を見ていると、ビートルズ、なかんずくレノンの真髄は、カブト虫組解散以後にあったことがよく分かります。「酒、歌、女はた煙草」と詠んだ佐藤春夫に倣ってドラッグやインドや愛と平和運動やオノヨウコなぞの生と性の妄動と親しく交わったレノンは、1971年に代表作IMAGINEを発表します。

そのメロディも歌詞もこれ以上ないくらいシンプルなものですが、天国や地獄や財産や国家や、生死を取り扱ったフレーズから浮かんでくるのは、「愛と平和こそ第一」と公言するこの人の、そのじつきわめてアナーキーな思想です。

かつてキリストや地上の権力を公然と否認した希代の革命家は、楽曲IMAGINEの中で己を夢見る人とちゃかしながら、じつは現世の愛と平和すらてんで信じていなかったのではないでしょうか。


愛と平和を歌うことなぞ迚もじゃないけど恥ずかしすぎて 茫洋

Tuesday, January 25, 2011

ヒッチコック監督の「めまい」をみて

闇にまぎれてbowyow cine-archives vol.78


ヒッチコック監督の1954年の「裏窓」が冷女グレース・ケリーを称揚する映画だったとするなら、この1958年の作品は冷暖房女、キム・ノヴァクの祭壇に額ずくためにヒッチガ作ったフェチシネマです。

 「裏窓」と同じく美神に翻弄されるあほばか男を演じるのはジェームズ・シュチュワート。探偵の心を鷲つかみにするのはクールビューティ、キム・ノヴァク1号。その神秘的で妖艶な美貌はどんな禁欲的な男にも一撃で眩暈をおこさずにはいられないほどの物凄さです。

 しかし探偵の愛と追跡をうまくまいて素顔に戻ったキム・ノヴァク2号のしまりのない顔と太り気味の体躯は、もはや同じ名前を持つ女優の姿形とは思えません。したがってこの映画が証明しているのは、人間は洋服と化粧、とりわけヘアメイクで全部変貌してしまう存在だ、ということです。

 人間、特に女性は自分とは違う存在にあこがれて衣装と化粧に終生身をやつすのですが、それが夢でなく手軽に実現できる変身手段であることは、素顔の坂東玉三郎や鈴木保奈美の目の前に立ちながら、それが言われるまでは本人とは気づかなかった私の個人的な体験からも確言できます。

 人工的に完成された極限の異貌美にとりつかれ、激しく固執し、恍惚のエクスタシーに見舞われた男の悲喜劇、それが「めまい」の世界に他なりません。大きな苦労を重ねてキム・ノヴァク2号をキム・ノヴァク1号に変身することに成功したあほばか男は、クールビューティの突然の不慮の死によって致命的な打撃を受けたはずです。

ヒッチの映像筆致は本作でも異様なまでに冴えわたり、シスコの坂道を白いシボレーに乗った探偵が謎の美女の緑のロルスロイスを追って追跡するシーンはまだなにも事件が起こっていないにもかかわらず背筋がゾクゾクするような気がしてくるのですが、これは2人が運命的な出会いをしたその瞬間に、約束の「トリスタンとイゾルデ」の前奏曲をちらちと挿入してみせた名人バーナード・ヘルマンの音楽が大きく物を言っているようです。


     お父さんなんて自分のことばっかり 茫洋

Monday, January 24, 2011

斎藤智裕著「KAGEROU」を読んで

照る日曇る日 第405回

生活に窮し、未来に絶望して死にたくなった若者ヤスオが、デパートの屋上庭園から飛び降り自殺を試みたが、たまたま居合わせた医療法人全日本ドナー・レシピエント協会の特別コーディネーター京谷に一命を救われる。

そして京谷は、どうせ死ぬならわが協会に全部の臓器を寄付してから死ねば、死後に大金が振り込まれるといってヤスオを説得する。

さまざまな紆余曲折を経てその契約が実際に遂行されるわけだが、その短かった生涯の最後の日に、若者は恋を知り、人を愛することの素晴らしさのめざめ、命の大切さに改めて気付き、

「皮肉なもんだよな。いままでの人生で今日ほど生きたいと思った日はなかったよ」

と言いながら死んでいく。移植されたヤスオの心臓が、恋する少女アカネの胸の奥で脈打つことを信じながら……。

というプロット自体は、かなり平凡だとしても、それほど悪いものではない。しかし問題は、この物語を演奏する奏者と楽器の凡庸さと無個性に尽きるということになるだろう。

いやしくも一篇の中間小説を物語ろうとするなら、他の作者と鋭く一線を画するそれなりに個性的な演奏法、つまり文体の独自性というものが必要だろうが、それらは236頁の全文のどこにも、かけらすらない。

これは私の勘で言うのだが、この小説はプロット自体は著者自身のものだとしても、それを実際に文章化したのは複数の手練れのライターではないだろうか。そうでなければたった一時間で読了できる、まるで漫画かテレビドラマのシナリオのように超フラットな文章が、こうも延々と続くわけがない。

かてて加えて、驚いたことには232頁の3行目に致命的な誤植があり、その活字の上から正しい固有名詞を記した白いシールが平然と張り付けてある。卑しくもれっきとした名のある出版社なら、即刻全本回収して刷り直した新本を提供すべきものではないだろうか。



7年間細々続きし仕事なれど絶えてしまえばいと寂し 茫洋

フェリーニのわが「魂のジュリエッタ」をみて

闇にまぎれてbowyow cine-archives vol.77


1964年製作の「魂のジュリエッタ」とはすなわちフェデリコ・フェリーニの愛妻ジュリエッタ・マシーナの魂について映画監督である夫が幻想と想像と創造と妄想を逞しくした映像による所産であろう。

仕事で多忙の夫に放置されている妻の内部には、当然のことながら夫の素行への疑惑やらおのれの精神の空虚さにたいする不安がどんどん亢進していく。映画はその空虚と不安を監督はじめての極彩色のカラーで面白おかしく、うれしかなしくホーヤレホと描き続けるのである。

ヒロインの夫が開くパーテーィに登場する人物もまたフェリーニ的な皮肉と諧謔で色濃く染め上げているのだが、とりわけ夫婦の隣人宅に集う正体不明の男女たちのゆがんだ群像がまことに興味深い。彼らは犯罪者というわけではないが、現世の普通の常識の範疇をはげしく踏み外しており、彼らの酒池肉林は一種のモダンなサバトの狂宴に似てくる。

フェリーニの映画が面白いのは、彼のキャメラの視点が、つねにこの正界から異界への踏み外しに向けられていたからだろう。軽妙な会話を交わすハイソサエティの人々の魂の内部に巣食う埒外の心象が、サーカスの役者や巨女や怪物や飛行船や巨船などの異形のものに託され、あらゆる制約を解き放たれた彼らは自在にスクリーンの天地をはね回ったのである。


    踊れ喜べ歌え魑魅魍魎の幸福な魂たちよ 茫洋

Saturday, January 22, 2011

奥泉 光著「シューマンの指」を読んで

照る日曇る日 第404回

この人も「シューマンの徒」であると知って勇んで手に取ったのです。ずいぶんシューマンに親炙されたようではじめのうちは喜びを覚えつつ頁をめくっていました。

ところがこの本は私が勝手に予想していたシューマンの伝記小説ではなく、下らない民放テレビでよくやっている「家政婦は見たか見ないかなんちゃって殺人事件」の謎解きスタイルをベースにしながら、要所要所に音楽の蘊蓄を傾けるという趣向になっています。

文中、音楽家シューマンとシューマンの楽曲の解釈や評価についての記述は迚も興味深く、この作曲家に多大の魅力を感じてはいても、そのよってきたる由縁についての理解が浅かった私などに裨益するところは多々ありましたが、さて全体的な小説としての出来栄えはどうであったかと問われれば、最末尾のあっと驚く殺人事件のどんでん返し、さらには本作の小説構造を一瞬にして解体してしまうという魔法のような裏技、そのトリッキーなお手並みを大いに評価するにしても、

「で、それがどうしたの?」

と呟かざるを得ない、このー、

「なんだかかなあ」

という白けた気分が、窓の外の木枯しのように心中を冷え冷えと吹き過ぎていったことも事実です。こんな大脳前頭葉でこねくり回した小説をでっちあげる代わりに、平野啓一郎のショパンの向こうを張って「音楽の友」でユニークなシューマン論を連載していただきたいものです。


  書いて書いてもトカトントン読んでも読んでもトカトントン 茫洋

Friday, January 21, 2011

ジャン・リュック・ゴダール監督の「勝手にしやがれ」をみて

闇にまぎれてbowyow cine-archives vol.76


ゴダールの59年の長編処女作「勝手にしやがれ」は、オットー・プレミンジャーの「悲しみよこんにちは」における冷酷な仕打ちにこりごりしていたジーン・セバーグちゃんと、当初ゴダールを黒眼鏡のホモだと思って毛嫌いしていたジャン・ポール・ベルモンドを得て、世界的な大成功を勝ち取りました。

 全篇パリの街頭とアパルトマンのロケーションで撮影されたこの作品は、ベルモンド扮するニヒルな若者の不条理な殺人やなげやりな生きざまの中で真珠のようにきらめく一条の純愛、そして犬がくたばるような唐突な自己破壊を淡々と描いていますが、終わってみれば典型的な勧善懲悪物語となっており、悪に対する神の裁きがしがないあんちゃんを、パリの灰色の舗道になぎ倒します。

というよりも殺人を冒し恋人から裏切られたこの不幸な若者には自殺しかみちがなかったのです。ゴダールはこの映画の中でニューヨーク・ヘラルド・トリビューン社の前で、犯人をみずから刑事に密告することによって、この映画の倫理的性格をはっきりと表明しています。ベルモンドはいくらかっこよくても天国には入れない悪人なんだよと言っているわけです。

ところがおなじヤクザ者のB級パルプフィクションでも、「レザボアドッグス」のタランティーノ監督の脳内には、悪を裁く存在、すなわち神がいない。もしかすると北野武の暴力映画にも。だからあの映画をみていると、私たちは吐き気を覚えるのでしょう。

そんなことはどうでもいいが、1979年8月、パリ郊外で遺体が発見されたジーン・セバーグの死は、当時新聞に掲載されたそのいたましい写真の記憶と共に、私の長く小さな悲しみとしていまも残っています。ストライプのコットンシャツとジーンズがよく似合った可愛い女でありやんした。


ニューヨークヘラルドトリビューン!と叫びながら売っていた女の子 茫洋

Thursday, January 20, 2011

ヒッチコック監督の「裏窓」をみて

闇にまぎれてbowyow cine-archives vol.75

マルコ・ヴィカリオ監督の「黄金の七人」がロッサナ・ポデスタを賞味するマカロニ映画であったとすれば、これはいちにも二にもあまりにも美しすぎるグレース・ケリーを鑑賞する映画です。

衣装はオードリー・ヘプバーンの着こなしも担当していたエディス・ヘッド。彼女が足にギプスをはめたカメラマン、ジェームズ・シュチュワートのアパートを尋ねるたびに、ユニバーサルスタジオに特設された裏窓セットが見事なファッションショーの舞台になります。

「クールビューティ」といわれた彼女の美貌は、母親のドイツの血からきているようですが、どこかの国の王女になったりしないでずっとハリウッドで活躍してほしかった。とかく王室だの皇室だのに御輿入れする女性は、不幸な運命を辿ると相場が決まっているのです。

いわれなく人の高み立つ人に訳も分からずお辞儀しているよ 茫洋

Wednesday, January 19, 2011

ジョン・ヒューストン監督の「アフリカの女王」をみる

闇にまぎれてbowyow cine-archives vol.74


第1次大戦が勃発し、その余波はアフリカの奥地まで及ぶ。宣教師の兄とともに原住民に讃美歌のオルガンをひいていたイギリスの年増の尼僧キャスリーン・ヘプバーンが、彼らの教会や住民の粗末な小屋を焼き払い捕虜にするというドイツ軍の暴虐に憤激して、「ドイツとの戦争」を決意するのだが、この愚直な唐突さがいかにも英国気質だなあと思わされる。

しかし彼女は、委細構わずしがない郵便配達夫のハンフリー・ボガードを巻きこんで、彼のちっぽけな汽船に乗りこみ、大河の急流を木の葉のように下って武装したドイツ戦艦に対峙し、おんぼろ汽船に魚雷を取りつけさせて突撃するという、考えてみれば荒唐無稽な物語である。

はじめはとんでもない話だとせせら笑っていたボガードが、こうと信じ込んだらてこでも動かぬ鉄の女の意地に引っ張り回され、行動と苦楽をともにするうちに、だんだん老いらく、が悪ければ中年同士の恋が芽生え、愛国心と愛情で一丸の炎となった男女が嵐の夜に敵艦につっこんでいく道行きを、現地ロケを敢行した巨匠ジョン・ヒューストンが余裕綽々と映像にしていくあたりが最大の見所。

はじめは処女のごとき、終わりは脱兎のごとしというのはこの映画のためにある箴言であろう。



おんなはすべてはじめは処女のごとく終わりは脱兎のごとし 茫洋

Tuesday, January 18, 2011

トスカニーニの「ワーグナーコンサート」を視聴して

音楽千夜一夜 第178夜

フルトヴェングラーがバイロイトでウイーンフィルを指揮する「ドン・ジョヴァンニ」のあとで、まるでグリコのおまけのように放送されたのが、この番組でした。

これは一九四〇年代から五〇年代にかけてNBCスタジオやカーネギーホールで収録されたワーグナーのライヴ映像ばかりを集めたもので、タンホーザー序曲やワルキューレ第三幕の「ワルキューレ騎行」、トリスタンとイゾルデの「前奏曲と愛の死」などのいずれも全曲からの抜粋がいくつか演奏されたのですが、はじめて目にするトスカニーニの指揮振りの精悍さと正確さ、そしておのが音楽の真髄を聴衆に届けようとする心情あふれる姿に大きな感銘を覚えました。

いずれの演奏も、音楽の内容よりも、その厳密なテンポや音量の制御などの形式面からまず耳を奪われます。フルベンと違ってトスカニーニの指揮は、テンポを制御する右手と楽器の入りとその流通を管理する左手に加えて、千変万化する顔の表情が大活躍します。彼は、自分がリハーサルのときに指示した楽器が正しいときに、正しい音量で、正しく演奏されていないときには仁王様の柳眉を逆立て眼光鋭く睨みつけますが、しかしトリスタンとイゾルデの終結部などで彼の手兵NBC交響楽団が見事な演奏をやってのけている最中には、突如童顔に帰ってまるで餓鬼大将のように微笑む姿には驚き、感動させられました。

この音楽の鬼軍曹は、たしかにオケをアホバカ呼ばわりもしたのでしょうが、おそらくそれだけではなかったはずです。そこには誰のものでもないトスカニーニだけのワーグナーの音楽が鳴り響いていました。オーケストラの面々は、トリスタンとイゾルデに替わって歌い、また歌い、さらに歌い続けていました。

そこに光り輝いていたのは、音楽そのものでした。トスカニーニと音楽することの無上のよろこび、そして連夜の奇跡的な演奏の成就がなければ、誰がこの天才指揮者の無礼と独裁に唯々諾々と従ったでしょうか。

番組の最後には、なぜかワーグナーではなくヴェルディの「諸国民の讃歌」という珍しい曲がピーター・ピアーズの独唱と合唱付きで演奏されていました。
故国イタリアのファシスト政権が崩壊し第2次大戦が連合国の勝利によって終結したことをことほぐこの演奏では、勝利国の英仏米の国歌のほかに、なんと「インターナショナル」が演奏され、大いなる過ちを犯した母国イタリアも含めて全世界が恩讐の彼方に新たな平和を構築しようではないか、とばかりに「諸国民の讃歌」が高らかに謳いあげられるのですが、その後の世界がどのような変転を辿ったかを知る者にとっては様々な感慨が胸に浮かんでくる映像です。


健ちゃんに行火を買って待っている 茫洋

Monday, January 17, 2011

フルトヴェングラー指揮「ドン・ジョヴァンニ」を視聴する

音楽千夜一夜 第177夜

1954年8月のザルツブルク音楽祭の折にパウル・ツインナー監督の手で映画収録された歴史的演奏を最新のハイヴィジョン・マスター版でみることができました。

 なんといっても冒頭の序曲を福禄寿のようなフルヴェンご本人が指揮する有り難いお姿を拝見出来るのがこの映像の最大の特色です。右手でリズムを取りながら時々左手で指示を送るのは他の指揮者と同じですが、最初の拍の振り出しを「わざと曖昧に」振っているのが印象的。きっと運命だってああいう感じでアバウトに振り下ろすのでしょう。オケは当然アインザッツが不揃いになるのですが、音楽的にはむしろそのほうが即時的感興に富み、収穫されるべき果実が多いというのがフルヴェンの考え方だったのでしょう。

 テンポは遅い。というよりも遅すぎるように感ぜられますが、このことがアリアの言葉の意味を際だたせ、普通なら聴き飛ばす箇所に重い意味を持たせます。例えばオットー・エーデルマンが歌う有名な「カタログの歌」のリフレインがこれほど意味深く当時の、(そして今の観衆の耳にも)届けられたことはなかったでしょうし、アントン・デルモータが歌うドン・オッターヴィオのアリアにもそれと同じことが言えるでしょう。

しかしこの悠長とも思える遅く、重々しいテンポは、最後の幕のドン・ジョバンニの有名な「地獄落ち」の場面で最高最大の効果を発揮することをフルトヴェングラーは熟知していました。不世出のドン・ジョバンニ役者チエザーレ・シェピは、「悔い改めよ!」と迫る騎士長に、「ノン、ノン、ノン!」と3度4度と断固拒否を貫くのですが、双方の対決を支援する管弦楽の圧倒的な遅さと圧倒的な咆哮の兇暴さは、ヘルベルト・グラーフの絶妙な演出とあいまって、前代未聞の凄まじさで私たちの脳天を震撼します。

モーツアルトにスコアには、この「地獄落ち」で終わる版とその後で6人が揃ってめでたしめでたしと終曲を歌うロングバージョンの2種がありますが、フルベンは後者を演奏しつつも、このオペラの本質は「地獄落ち」の迫真性そのものにあることを見定め、だからこの遅いテンポをあえて設定したのだということが、オペラの肝心かなめのキーポンントを聴いてはじめて分かるのです。


えんやこらしょっとバイロイトに響き渡るウインフィルの咆哮 茫洋

Sunday, January 16, 2011

マルコ・ヴィカリオ監督の「黄金の七人」をみて

闇にまぎれてbowyow cine-archives vol.73

ドンナ監督だかいっこうに知らないが、ともかくおそろしく凡庸な監督が作った超くだらない銀行泥棒のサスペンス映画であるが、スリルもサスペンスも全然ない。見るだけ時間の無駄だし、げんに私もこの下らない正編の続編も途中で放り投げた次第であるが、それでも録画を消すまいかと迷ったのは、ロッサナ・ボデスタが出ている映画だからである。

ロッサナ・ポデスタはどこがいいかというと、まず名前が、語呂がいい。第二に顔がキュートで、姿態が悩ましい。第三は第二の繰り返しになる。この映画の登場人物が「彼女を見ているとムラムラしてくるね」というのであるが、じっさいそういう気分になってくる珍しい女優さんなのである。ゴダールの「軽蔑」に出てくるBBもスケベーだが、こっちのほうがもっと淫蕩であろう。

 いちおう銀行泥棒の仲間なのであるが、仕事らしい仕事はせずに主犯格の教授の情婦兼秘書といった役どころで、昼かまらパンテイもはかずに毛皮のコートをまとったり、すけすけの網タイツでソファーの上をごろごろ転げ回っていたりする。おまけに熱愛していたはずの博士を平気で裏切ったくせに、金塊が自分のものにならないと知ると再び手のひらを返して教授の元に擦りよってくる。じつに猫のように妖しい存在なのである。

 これほど中身が寒い映画が、世界的に大ヒットした理由はポデスタいがいにかんがえられない。思うに本作は、1965年にイタリアから飛び出した、初期ポルノ映画の草分けではないだろうか。そして真昼間にパンゲーィひとつはかないでキッチンをうろうろする主婦の素敵なライフスタイルは平成の御代の皇国にも連綿と伝えられ、それらは村上春樹のエッセイに活写されている。


 パンテイは別になくても構わないわさよならモンテイパンテイ 茫洋

一〇年代の女優にはムラムラしないのに六〇年代の女優にムラムラ 茫洋

Saturday, January 15, 2011

村上龍著「歌うクジラ下巻」を読んで

照る日曇る日 第403回


舞台は、少子高齢化と階級分化がどんどん進行した22世紀の日本です。

海外から移民を迎え入れて労働と人口の生産性の低下を防ぎ、移民を含めた下層階級と中間層を一部の最上層と上層階級が国家全体を、階層別に効率的に管理運営する文化経済効率化運動が提唱されますが、2度にわたる移民内乱を弾圧し、階級矛盾を各階級の「棲み分け」とSW遺伝子の「適切な」配分とによって見事に解消したのが、最高権力者のヨシマツケンイチでした。

彼はまず各層の情報を完全に遮断し、警察力をロボットに託して絶対的な治安と秩序を獲得します。そして、たとえば100歳以上の最上層階級を高級老人施設や宇宙ステーションに移住させて幸福な長寿ライフをエンジョイさせたり、隔離施設に隔離した犯罪者の生命遺伝子を短縮・断罪したり、最大多数の労働者層が満足するだけの適切な所得を与えたりして、疑似的な「理想社会」のトバ口に立ったように見えました。

しかし表層の幸福に埋没したはずの最上層と上層の住民は、刺激のない日常に倦怠して生殖率がいちじるしく低下し、総合精神安定剤を乱用して幼女を誘拐・暴行・殺戮するなどの性的倒錯と性犯罪に溺れるようになります。

このままでは遠からずアッパー・ブライテスツが消滅してしまう。移民の人口急増が階級ヘゲモニーの全面的転倒につながる危険を察知したヨシマツは、SW遺伝子を持つひとにぎりのエリートを下層階級の女性とノルマを与えて交接させ、優良遺伝子を授けられたヤングゼネレーションを純粋培養しようなぞと決意するのですが、実効が上がりません。しかし主人公のアキラの実の父親は、もしかするとヨシマツかもしれないのです。

けれども、科学技術の粋を駆使してつなぎとめられてきたこの最高権力者のネットワークに、いまや重大な危機が迫っていました。日本を完璧に支配してきたこの男の権力を持続するためには、生命力にあふれる若者の知的な脳が必要だというのです。父を尋ねて遥か宇宙を二万マイル。果たして主人公アキラの運命やいかに? おあとは本巻を読んでのお楽しみ。

ダンテの「神曲」とソポクレスの「オイディプス王」にならいつつ、人類の悲劇的な未来史像を骨太に提示した著者の意図は、全篇覇気に満ちた壮大な企図として称賛に値しますが、全知全能を傾けたその理論的考察とファンタジーとの有機的な調和がいま一歩果たされていれば、著者がめざす平成版「夜の果ての旅」の境地に到達したのではないでしょうか。


智に働けば角が立つ情に掉させば流されるとかく村上小説は難しい 茫洋

Friday, January 14, 2011

町田康著「人間小唄」を読んで

照る日曇る日 第402回


貧困は男根ですよと言い切るとき団塊オヤジきみの脚をみている

などという野放図な狂歌を軸にしてでたとこ勝負の法螺吹き噺が、それこそ疾風怒濤の勢いで、なおかつ鼻歌交じりに繰り広げられる、非常にノリのよいパンク小説である。

が、しかし、だからといってこの小説に構想やプロットがないというわけではない。冒頭の妙チクリンな「おうた」を送りつけられた書けない小説家、糾田両奴が、それを無断で引用し独自の解釈と鑑賞を施したエッセイを文壇誌に載せたところ、その狂歌を送りつけた張本人、蘇我臣傍安こと俺、が押しかけ、著作権の盗用だといきりたち、くだんの小説家を拉致して無理無体な難癖を付けまくる。

で、どういう難癖かというと、1)よい短歌を作る。2)ラーメンと餃子の人気店を作る。3)暗殺する、のいずれかを選んで実行すれば許してやる、というアバウトなもので、これが構想やプロットという名に値するかは、はななだ疑問であるが、物語は委細構わずどんどん進行していくのである。

さんざん苦悩した挙句、ついに小説家は

朝ぼらけだってよって嘲笑されて朗唱不能きみとペンネ食ったのも忘れてしまった

という、私など7度生まれ直しても詠めない大傑作!をものするのであるが、運悪く蘇我臣傍安のガールフレンドで白いワンピが良く似合う新未無の気に入らずに没になり、やむを得ず天下一のラーメン屋をめざす羽目になり、それからそれからとこの行く宛なしの与太話は延々と続いて行くのであるが、もはやあらすじなどはどうでもよい。

読者が堪能するべきは、その恐るべき教養に満ち満ちた、ユーモアとウイットみなぎる軽佻浮薄なパンクロック小唄の流麗な調べそのものである。


2匹の猫に見下ろされながら咳2つ 茫洋

Thursday, January 13, 2011

川上弘美著「機嫌のいい犬」を読んで

照る日曇る日 第401回

当代一流のものかきによる初めての俳句集です。いくら優れた小説家でも俳句の本なんてそうは簡単に出せないでしょう。出した出版社もえらいけど、出してもらった作家は、してやったりとニコニコするでしょう。だから「機嫌のいい犬」という題名がつきた、とういうのは私の勝手な想像です。

徹頭徹尾機嫌のいい犬さくらさう


本書には1924年から2009年までにつくられた、それほど数が多くない俳句が1ページあたりたった2句という贅沢なレイアウトで並べられていますが、歳月が経つにつれてその出来栄えが急速に変化し、いうならば素人が素人裸足のレベルへと突きぬけて著者独特の俳句世界を築き上げていったありさまをつぶさにうかがい知ることができます。

夕桜ホテルのバーに人待てる

秋風や男と歩く錦糸町

はるうれひ乳房はすこしお湯に浮く

などという句は、映像的輪郭がくっきりしていて、秘め事をのぞき知ったような妖しいときめきを感じます。さすがは小説家の俳句です。そして女の句です。


 そんな次第でどれも悪くないのですが、私が格別にいいなと思うのは、こんな句です。

たくさんの犬埋めて山眠るなり

舐めてとる目の中の塵近松忌



でんでん虫生きているって言ってみろ 茫洋

Wednesday, January 12, 2011

村上龍著「歌うクジラ上巻」を読んで

照る日曇る日 第400回


同じ村上でもハルキさんが大活躍なのにライヴァルのリュウさんはつまらん経営者PRテレヴィにばかり出ていったい何をしているんだろうと思っていましたら、どっこいすんごい小説をひそかに書き続けていたんですね。

 つねに時代の最先端で揺曳する政治、経済、社会、文化問題の本質にずぶりと切りこんで、愚かな私たちをあっと言わせて蒙を啓いてみせてくれる著者ですが、今回は22世紀の日本および日本人をテーマとする気宇壮大な超未来ファンタジーを繰り広げてくれました。

紀元2022年のクリスマスイブに、グレゴリオ聖歌を歌う推定1400歳のクジラがハワイ沖で発見され、そのクジラちゃんの細胞から不老不死の機能を備えたSW遺伝子が発見されるところからこの希代の空想とリアルが合体された物語が始まります。

私は第1章の38頁に書かれたこのらちもない記述にあきれ果て、「フィリップ・K・ディックならもっと巧みな導入をするぞ!」と叫んで、本書をゴミ箱に投げ入れ、およそ1週間放置していましたが、どうにもその先が気になってまたまた手に取ったのですが、著者が入念に仕掛けたはずのこの種の強引な設定に乗れないまま、読書を放棄する読者もさぞ多いことでしょう。

さて長年の夢をついに叶えた人類は、一方ではノーベル賞受賞者や高い知能・才能の持ち主の寿命を延ばすとともに、大量殺人者や凶悪性犯罪者あるいは反社会的人物の老化を促す医学的刑罰を下して現世からの急速な退場をもくろむようになります。

この物語の主人公のアキラの父親も、SW遺伝子処分を受けて幽閉され、処断された「新出島」の住民なのです。亡き父親がアキラのICチップに書きいれた秘密指令を実行するべく、身体障碍者のサブロウと共に厳重に隔離された「新出島」を脱出することに成功した2人の少年を待ち構える、異様な世界の異常なピープルの正体は果たして何か?!

読者はたちまちキッチュでポップなジェットコースターに乗せられ、どこへ連れられて行くのかまったく予測不可能な旅に拉致されてしまうのです。著者が予告する「22世紀版神曲」の遍歴は、いま始まったばかりです。


けふも悲しい顔をしておった不老長寿の老人 茫洋

Tuesday, January 11, 2011

クリント・イーストウッド監督の「ダーティハリー4」をみて

闇にまぎれてbowyow cine-archives vol.72

1983年にクリント・イーストウッド監督が主演製作した「ダーティハリー4」では、ならず者たちに暴行された女性ソンドラ・ロックの犯人への復讐がテーマになっています。いたいけな妹ともども遊園地の回転木馬の中で強姦された彼女は、怒りの弾丸を陰部と脳天に1発ずつ撃ち込み、血の報復の輪をまさに完成させようとしたときにサンフランシスコ市警のキャラハン刑事が登場しとのたもうのです。

暴力装置としての国家権力にがんじがらめに囲繞された私たちは、もはや他者によって加えられた犯罪や暴力に対して自力で対処する自然かつ当然の行為を禁じられ、そのすべての落とし前を国家権力にゆだねてよしとしているように表向きは見えますが、ホントの本音の部分では、爬虫類の脳が、「目には目を、歯には歯を!」と絶叫しており、実際にはそうした表層の人間脳の知的な判断を爆砕して第2の犯行におよぶ例は枚挙に暇がありません。


げんにわが国でも赤穂浪士の敵討、下がっては権力による横暴と殺戮に我慢に我慢を重ねた高倉健が、自らも近代知識人としての封印を破って再びの殺戮をおかしてしまう。世界中で古来数多くの私刑が実行され、劇化されて人智の暗闇にひそむ血の報復の合理性と快感の入り混じったカタスシスを提供し、大衆の快哉を博してきたのですが、本作も比較的新しいその好例で、美しく理知的な容姿に惹かれたキャラハンは、その私刑を最終的には容認してしまいます。

彼がGo ahead, Make my day!と叫ぶと、おおかた犯人はやろうとする前にやっつけられてしまうのですが、この作品だけは例外で、やはり可憐でけなげな美女の前では、法の下での正義などどうでもよくなってしまう。この理不尽な結末を正義について語るのが大好きなサンデル教授に見せたらなんとコメントするでしょう?


 Go ahead, Make my day!ドラ猫が見毛猫にいきまく冬の昼下がり 茫洋

Monday, January 10, 2011

アニエスカ・ホランド監督の「ベートーヴェンにならって」を観て

闇にまぎれてbowyow cine-archives vol.71

 
「敬愛なるベートーヴェン」という訳のわからない邦題をつけたのは、東北新社という配給会社のド阿呆。「敬愛」は名詞で形容動詞ではないから、このれっきとした誤用では楽聖を尊敬するどころか日本文化全体をコケにしたも同然である。

 ちなみに原題は「COPYING BEETHOVEN」。作曲家をめざすこの映画のヒロインが、ベートーヴェンを尊敬しており、彼の晩年の作品の写譜をする若い女性なのでこのタイトルがつけられているが、もうひとつ彼女の作品が「いい曲だが、私の真似をしている」と楽聖から批評されたポンイトを強調したいために、こういうネーミングにしたのである。

いやしくも創造をめざす表現者は、師表のたんなる模倣者に終わってはならぬ。「鶏口となるも牛後となるなかれ」という貴重な人生訓を含んだ文部省推薦映画なのに、せっかくのその有り難い内容を、無知で無教養な日本の配給会社が台なしにしたのである。おそらくこの会社には、日本語を正しく読み書きのできる日本人がひとりもいないのであろう。

そこでそんなアホバカ会社に代わって私が考えたのが新邦題の「ベートーヴェンにならって」。トマス・ア・ケンピスの名著「キリストに倣いて」にならったのですが、以後は日本全国このタイトルに変更していただきたい。

と、さんざん悪口を叩いたけれど、映画自体はなかなかおもしろかった。

1824年5月7日の第9交響曲の初演は、この映画では、なんとくだんの写譜係の女性が、オケのなかにもぐりこんで楽聖に向かって指示を出し、それを見ながらつつがなく指揮を終えたベートーヴェンが、ウイーンの満堂の聴衆の拍手喝采を浴びることになっている。

しかし実際は、そもそもこんな若い女性なぞはベトちゃんの妄想の中にしか実在せず、難聴のために正確な指揮ができないベートーヴェンの隣に正指揮者が並び立ったために、即席のオーケストラは大いに混乱したそうだ。さもありぬべし。

 彼女はベートーヴェン宅に通うためにウイーンの修道院に下宿しているという設定になっているが、修道院長のおばさんはサリエリの弟子についたという設定にもなっていて、この映画は、生涯を独立不羈に生き抜いた楽聖の励ましで、男でも難しい作曲家をめざす女性に対してエールを贈るところで幕がおりる。ちょっととってつけたようなフェミニン映画とも言えるだろう。


 聖キリストにはならえなくとも楽聖のベートーヴェンならならってもいいな 茫洋

Sunday, January 09, 2011

フェデリコ・フェリーニ監督の「道」をみて

闇にまぎれてbowyow cine-archives vol.70


ニノ・ロータの哀愁あふれる「ジェルソミーナ」がいつまでも耳に残る悲しい愛の物語です。なんといってもけだもののようなアンソニー・クインとノータリンで無垢なジェリエッタ・マシーナの組み合わせが絶妙。そこにファンキーな綱渡り芸人のリチャード・ベイスハートが絡んで三幅対の悲劇が完成します。

 何度見ても目を引くのがザンパノが運転するオート三輪。敗戦直後のわが国ではいたるところでこのスタイルの乗り物が使用されていましたが、この映画の中で登場するのは「故障知らずの米国製」とザンパノが自慢していました。

ザンパノの得意技は胸に巻いた鉄の鎖を吸い込んだ空気で断ち切ることですが、これって何回見てもカットはされていない。ぶち切れるのではなくブリッジされた細い部分がはずれるのではないかと想像されますが、どんどん歳をとっていく旅芸人が馬鹿の一つ覚えの力技を見せものにする情景は侘びしいものがあります。

 物語の終わりの方でザンパノに殴り殺された綱渡り芸人のイマージュがトラウマになってそれまでも頭が弱かったジェルソミーナをザンパノは見捨てるのですが、彼女が横たわっている地面だけは太陽の光が当たっていない。ザンパノはもっと明るい方へ来いよと呼びかけるのですが、彼女はココでいいと言って拒むところも印象に残ります。

自分が捨てた女の哀れさと喪ったものの大切さにはじめてきづいて夜の浜辺で嗚咽するザンパノですが、なに一晩経てば色女とよろしくやっていくに違いありません。


お母さん自閉症ってなにと尋ねている自閉症の息子 茫洋

Saturday, January 08, 2011

安田公義監督の「眠狂四郎魔性剣」を傍観視する

闇にまぎれてbowyow cine-archives vol.69&音楽千夜一夜 第176夜


1965年製作の、市川雷蔵主演のシリーズ第6作。柴田錬三郎の原作を安田公義監督が映画化しましたが、高峰を知るためには谷底を這いずりまわることも必要、という茫洋格言を地でいくような凡庸極まり無きルーチンピクチュアーです。

まあ元をただせば原作自体が黒ミサとか蛇使いの女忍者とか荒唐無稽なプロットの連発なので、これを映画にするにはシナリオの名人が必要であるにもかかわらず、星川清司の脚本があまりにも素人作文で芸がなさすぎるために、雷蔵と嵯峨三智子の「美貌」を鑑賞するしか能のない典型的なC級大映映画になり下がっています。

しかし当時のわが懐かしき観客たちは、「こんな品性下劣な娯楽映画」に手に汗握って満員立ち見で見物していたことを思うと、溝口や黒沢や小津や成瀬なぞの「名作」がいかに日蔭の華であったかが如実にうかがい知れるというものです。

「こんな俗物映画が映画だ」と信じ込んだ観客自体のこころ、それは平成の御代の音楽世界にも健在です。たとえば演歌やレゲエやラップやAORや今様の沖縄ポップスの単純明快な三三七拍子にいとたやすく飛びついて身をゆだね、多少の違和感を圧殺してそれを自主独立の自前の音楽と信じこみ、無反省に身体やのんどを振動させてゆく、自己投棄の内部におおきく横たわっている脱主体・反知性ワールドへの軽挙妄動です。 

今年の紅白でいうと、嵐とかエグザイルとかの実存に相亘らぬ駄曲たちの世界。まあ桑田の新曲以外のたいがいの曲がそうでしたが、とりわけこれをおのれの人生の秘事として胸中に大事に秘匿すればいいのに、「トイレの神様」などという「迷曲」を作り、大衆の面前で恥知らずに延々と歌う「喉だけは素敵な素人」と、このこっぱずかしい稚拙な歌謡に拍手喝采大泣きする大衆の心根で、これらの対極に光り輝いているのが例えば友川かずきの「生きているって言ってみろ」の切り裂きナイフの突端であることは、もはや言うを待たないでしょう。

それはともかく日本映画の黄金期を下支えし、その凡庸さに改めて辟易した観客自体が映画会社のマーケティングに失望した瞬間に、日本映画の黄金時代は終わり、この低迷は現在もなお長期にわたって持続しているのです。

元に戻って、そんなに駄目でひどいこの映画にも褒め称えるべきキーポイントが2つありました。一つはその素晴らしい題名で、これを見た人は嵯峨三智子が全裸になって雷蔵を誘惑するのではないかと思うはず。もうひとつは私の親戚の時代劇俳優、五味龍太郎の名演技。悪役専門のこの名優が、眠狂四郎の「円月殺法」の血祭りになるシーンを一瞥するだけでもこの映画の価値はあるといえましょう。


ゆるやかに円弧を描く村正の一太刀浴びてゴミリュウ仆る 茫洋

Friday, January 07, 2011

福田善之著「草莽無頼なり」下巻を読んで

照る日曇る日 第399回

いよいよその運命の日が近づいてくると、著者の筆が鈍って、書きたくないという。その気持ちは分かるが、こういう史伝は初めて読んだ。

この人は、志半ばで倒れた男、自分が惚れこんだ男を、いっかな死なせたくないのである。「維新史土佐勤王史」、大佛次郎「天皇の世紀」、平尾道雄「中岡慎太郎 陸援隊始末記」の3著に依拠しつつ様々な「たられば」を論じながらも、中岡慎太郎というけったいな男の実存に迫ろうとして、延々と回り道を楽しみ、その人柄や思想、特に前者について、あれやこれやの空想をたくましくしたい人なのである。

近江屋の2階で刺客の鋭い刃に斃されるまで、彼と龍馬がどのような対話を交わしたかという想像を巡らせるその要点が、政局よりも死んだ高杉晋作の女についての感想であるというのも、「さもありなん」と感じさせるし、全篇を通じて「くぐつ師」のおふうや半兵衛という空想上の人物に神話的いのちを与えて、主人公の予言者ないし守護神の役割を割り当てていることも、いかにもな福田流演劇作法のひとつといえるだろう。

しかし著者がいうように、土佐藩の板垣退助を動かして薩摩との同盟を果たし、蟄居中の岩倉具視を薩長のネットワークに組み入れ、陸援隊を組織したのは、なんといっても中岡慎太郎一個の手柄であり、とりわけ吉田松陰と高杉晋作の「奇兵隊」の草莽思想の影響を受けた陸援隊の、万人に向かって開かれ、出入り自由という民主的である以上にアナーキーな組織原理が、中岡によって夢見られていた、と説く著者の語り口は魅力的である。

もしこの未完の偉大なる革命家がいましばらく健在で、この陸援隊の草莽原理が、軍隊の枠をはみだして大きく発芽し、わが国の政治原理の基底にまで喰い込んでいたら、と著者ならずとも誇大妄想的な「たられば」的初夢をエンジョイできるところが、この本の得難い変態性なのではあるまいか。


転配はわが本意にあらずという人思い墓地歩みけり正月三日 茫洋

Thursday, January 06, 2011

福田善之著「草莽無頼なり」上巻を読んで

照る日曇る日 第398回

福田善之といえば「真田風雲録」。その主題歌を「てんでかっこよく死にたいな」なぞと高歌放吟しながら機動隊に突っ込んでいった昔もあったわけですが、どっこい「袴垂れはどこだ」の当のご本人が健在で、幕末の志士中岡慎太郎を主人公とする小説をお書きになっていたとは知りませんでした。

 世間ではまるで馬鹿のひとつ覚えのように、海援隊の坂本龍馬が幕末史を主導したかのような奇怪な幻影にとりつかれていますが、(特にひどかったのはエヌエチケイの大河ドラマの史実を無視した英雄主義史観)とんでもない話で、別に彼がいなくたって維新は達成されたわけですし、彼のほかにも無数の志士たちが列島各地に叢生していた。著者がいうように、時代が青春期を迎えていたわけです。

 慶応3年(1867)11月15日、所も同じ四条河原町上ル醤油商近江屋新助方2階で暗殺された一代の英雄?龍馬ではなく、従来あまりフットライトを浴びることがなかった、このどんくさい土佐の庄屋の倅、に着目して幕末動乱史を描こうとしたのは、さすがは福田善之といえるでしょう。

 本刊ではこの、いささか遅れてやってきたけれども真打ちの革命家の前史として、土佐藩の武市半平太、長州藩の久坂玄瑞や高杉晋作など尊攘派志士とのまじわりを通じて、吉田松陰の「天朝も、幕府、我藩も不要、ただ六尺の我身が入り用」という草莽の思想に逢着し、疾風怒涛の青春の渦中に身を投じるところまでを、悠揚せまらぬ、けれど深い学殖に裏打ちされた、見識ある高等漫談とでも評すべき語り口で吟じつくしています。



 青春を終わりし時代の行き止まりてんで恰好悪く死んじまうおれたち 茫洋

Wednesday, January 05, 2011

マイケル・マン監督の「マイアミ・バイス」を見て

闇にまぎれてbowyow cine-archives vol.68

2006年に製作された特捜刑事マイアミ・バイスの映画版である。

冒頭から画面はダークで誰が何をしているのやらさっぱりわからない。ジョン・マーフィーの音楽も輪をかけて暗い。犯罪都市マイアミの悪徳を描くB級映画だからそれはそれでいいのだろうが、ギャング、ドラッグ、武器、密輸、秘密捜査と話が揃って、糞ダメに名花コン・リーと主人公コリンファレルの間に敵味方を超えた運命の恋が芽生えてもまったくも救いがない。こんなあほくさいドラマを撮影・製作していても創造のよろこびなんて全然なかっただろう。

監督のマイケル・マンの経歴を調べてみたら、あのクーパー原作の「モヒカン族の最期」を映画化した「ザ・ラスト・オブ・モヒカン」の監督であった。これで私の中では1955年製作の「侍ニッポン」と並ぶ心も冷えるお先真っ暗映画3本立てが完成したことになる。いずれをとっても夢も希望もない世界的なご時世にぴったりの映画であろう。

ゆいいつはきだめの鶴的な存在感を示しているのがコン・リーだが、あの1987年の「紅いコーリャン」から20数年、この女も幾星霜を経て今頃はどんな想いで暮らしているのだろう。映画のラストの暗い海に消える百合のような痩せた顔、思いつめたたような翳のある瞳を見ていると、こちとらまでがやるせない気分に襲われるのである。

生も暗く死もまた暗いそんな眼をしてこっちを見るなコン・リー 茫洋

Tuesday, January 04, 2011

田村志津枝著「初めて台湾語をパソコンに喋らせた男」を読んで

照る日曇る日 第397回


昨年のユネスコの調査によると、世界ではおよそ6000の言語があるそうですが、そのうち約2500の言葉が、絶滅の危機にあるそうです。

日本ではあの金田一さんが研究なさったアイヌ語の話し手が、いまやたった10人になってしまい、その他八丈島・南西諸島(奄美、沖縄、宮古、八重山、石垣島、国頭)など合計8つの言語が滅びつつあるというのです。貴重な動植物の消滅も気になりますが、言葉の消失も人類の文化遺産とその多様性の喪失という意味で惜しまれてなりません。

しかし私は、台湾語もある意味で存亡の危機にある言語であるとは、この本を読むまではまったく知りませんでした。

著者によれば、台湾語はもともとは中国福建州南部の言語で、その住民の移住によって台湾で使われるようになったそうですが、その移住民の子孫が7割を占めるこの地で台湾語が公用語になったことは一度もなかったそうです。

日本の植民地時代には日本語、中国からやって来た国民党政権の時代には標準中国語の使用を強要された台湾の人たちは、日常の生活語としてのみ彼らの母国語を、まるで江戸時代の「オラショ」のようにひそかに口伝えてきたというのです。

日本人でありながら台南に生まれ、侯孝賢監督の「悲情城市」などの台湾ニューシネマを初めてわが国に紹介するなど、この南の島に浅からぬ因縁を保ち続けてきた著者は、台湾語の消滅を憂慮し、最新のコンピューター技術を駆使して母国語を保存しようとする友人アロンの情熱的な生き方に次第に魅入られ、その一途な仕事振り寄りそうようにして、この「絶滅危惧言語」の実態に深入りしていきます。著者がとつおいつ書きすすめていく随筆とも交友録ともルポルタージュともドキュメンタリーともつかぬ奇妙な文章を読まされているうちに、あら不思議や、現在の台湾と台湾の人たちがかかえこんでいる歴史と年輪の重さというのものが、おのずから浮かび上がってくるような気配なのです。

「台湾語は美しい言葉だ」と語るアロンに共感する著者は、きっとこう言いたいに違いありません。「台湾は美しいふるさとだ」と。



ユニクロで6足1000円の靴下を迷いつつ選ぶ小さなしあわせ 茫洋

マーチン・スコセッシ監督の「アビエイター」を見て

偉大なる飛行家であった大富豪ハワード・ヒューズの半生を名監督のマーチン・スコセッシが見ごたえのある映画に仕上げています。

史上最大の水上輸送機ハリキューズやゼロ戦に似たデザインの高速機などの設計統括に携わっただけでなく、飛行機会社を立ち上げ、ついにはトランスワールド航空を買収して当時最強の航空会社パンナムに対抗するなど、この一代のヒコーキ野郎の飛行機に賭ける情熱の凄まじさには圧倒されますが、その野心的な事業欲にも増して彼を突き動かしたものは、「大空を自由に飛ぶ喜び」であったことが、いき生きと描かれていて共感を呼びます。

恋人キャサリン・ヘップバーンに操縦を教えながら、ロサンジェルスを夜間飛行するシーンはとても感動的ですが、おそらくこの瞬間こそが、ヒューズとヘップバーンにとって生涯で最も幸福な時間であったのではないでしょうか。

強迫性障碍に付きまとわれて悲惨な死にざまを余儀なくさせられたハワード・ヒューズの霊を慰めるために、マーチン・スコセッシは、彼を野心的な大事業家や軽佻浮薄な漁色家として描くよりも、悲運の大フィルムメーカー、あるいは米国のサン・テクジュペリとして描くことを好んだような気がします。

なおヒューズ役のデカプリオは大健闘していますが、女優陣はみな駄目で、それら当代の有名俳優たちを「当節はどうしてこんな大根役者しかいなくなってしまったのかいな」と野村監督のようにぼやきながらも、楽しそうにメガフォンを取っているマーチン・スコセッシの穏和な顔つきが見えてくるようです。


此岸より名優多き彼岸かな 茫洋

Monday, January 03, 2011

メトのベルディ「アイーダ」を視聴する

♪音楽千夜一夜  第175夜


新春の気分にあうか合わないか分からないが、ともかく見たのはこのNHKの録画。2009年10月24日のメトロポリタン歌劇場のライヴで幕間にルネ・フレミングが出演者にインタビューするというおまけ付きです。

表題役をヴィオレータ・ウルマーナ、ラダメスをヨハン・ボータ、アムレリスをドローラ・ザジックが熱演する3時間を楽しみましたが、中ではやはりベテランのザジックが遠くまで声を飛ばして圧巻ですが、この主役3人の最大の欠点は顔も体もブタブタブタなことでしょう。演技もいまだしであります。

指揮は、小生がかねがね注目しているダニエレ・ガッティですが、ウイーン・フィルで管弦楽を振っているときには威勢が良かったけれど、メトではどうも冴えない。音楽監督のレバインから、もっと自在な感興の高まりを引き出すすべを学んで欲しいものです。

演出は有名なゼッフィレッリを薄味にした感じのソニア・フリゼルですが、凱旋の場面で馬は4頭登場しても象が出てこないところにいちまつのわびしさを感じます。ともあれニューヨークの観衆は温かい。ウイーンやミラノと違って、あんまり細かいところを問題にせず、おおような態度で盛大なブラボーを浴びせるのは、これはこれで結構です。


野晒しや百尺竿頭一歩を進む 茫洋

Sunday, January 02, 2011

年末年始音楽三昧

♪音楽千夜一夜  第174夜


旧年中からの仕事で、大晦日も元日もなくひたすらパソコンに向かっている2011年の幕開けですが、そういいながらもちゃんとNHKの音楽番組はチエックしておりました。

先ずは2009年のベルリンフィル恒例のシルべスター・コンサートですが、これが思いがけず良い演奏で拾いものをしたような気持ちになりました。ベルリンフィルは高く評価するものの、そのシェフのサイモン・ラトルの音楽性について大いなる疑問を懐き続けてきたわたくしめでありましたが、当夜のチャイコフスキーの「くるみ割り人形」はなかなか良かった。

チャイコのバレエは、彼の交響曲やオペラを凌ぐ本当の傑作ばかりですが、とりわけこの曲はいくら聴き続けてもけっして嫌にならないほどよく出来た曲です。その名曲をまるで作られたばかりの新鮮さで聴かせてくれたラトルは、もう昔のラトルではない。かれのブラームスの全曲録音がかれの音楽遺伝子を全とっかえしてしまったのかも知れません。
この度めでたくコンマスに就任した樫本大進やビオラ首席の清水直子も、ラトルともども力演していました。

 続く元旦恒例のウイーン・フィルのニューイヤーコンサートは、指揮者が小澤の後任で国立オペラのシェフに就任したフランツ・ウエルザー・メストへのお祝儀ということで、なんの期待もしていませんでしたが、まったくその通りの普通の演奏に終始していました。

 ウイーン・フィルのウインナワルツは、妙な指揮者(例えば小澤、メータ、アーノンクール、バレンボイムなど)が妙なことをすると、その本来の良さが傷つけられて台なしになるのですが、ぬきんでた指揮者(例えばカラヤンやクライバー)が妙なことをすると、時として素晴らしくなるという変態的な特性があります。

 メストはそういう危険を犯さない代わりに、かといって「メストならではのなにか」はアンコールの2曲にいたっても何も出てこない、まるで水道水の垂れ流しのような演奏でした。こんなことは彼がチューリッヒ歌劇場で垂れ流していた「清く正しく美しい宝塚オペラ」を聴いたことのある人なら、とっくに分かっていたはずです。

 私がいいたいのは、この人やブロムシュテットとかサバリッシュなど賢くて秀才型で真面目な人格者は、あんまり指揮者などにならないでほしいということです。大体君たちのインテリ臭い顔は、そもそも音楽をやる顔じゃあない。古今東西を問わず、ミュージシャンは、やくざな河原者の専売特許であることを忘れてもらっちゃあ困ります。

 偉大なるサイモン・ラトル「卿」が、サーなるご立派な称号を惜しげもなくテムズ河に投げ捨て、かのビートルズを生んだリバプールのバサラな伝統を受け継ぐラトル「狂」になり下がった時、ベルリン・フィルはカラヤンを超える偉大なマエストロを戴冠することになるでしょう。


    おいらはしょせん河原乞食そうおもいながら指揮せよ指揮者 茫洋