Friday, January 07, 2011

福田善之著「草莽無頼なり」下巻を読んで

照る日曇る日 第399回

いよいよその運命の日が近づいてくると、著者の筆が鈍って、書きたくないという。その気持ちは分かるが、こういう史伝は初めて読んだ。

この人は、志半ばで倒れた男、自分が惚れこんだ男を、いっかな死なせたくないのである。「維新史土佐勤王史」、大佛次郎「天皇の世紀」、平尾道雄「中岡慎太郎 陸援隊始末記」の3著に依拠しつつ様々な「たられば」を論じながらも、中岡慎太郎というけったいな男の実存に迫ろうとして、延々と回り道を楽しみ、その人柄や思想、特に前者について、あれやこれやの空想をたくましくしたい人なのである。

近江屋の2階で刺客の鋭い刃に斃されるまで、彼と龍馬がどのような対話を交わしたかという想像を巡らせるその要点が、政局よりも死んだ高杉晋作の女についての感想であるというのも、「さもありなん」と感じさせるし、全篇を通じて「くぐつ師」のおふうや半兵衛という空想上の人物に神話的いのちを与えて、主人公の予言者ないし守護神の役割を割り当てていることも、いかにもな福田流演劇作法のひとつといえるだろう。

しかし著者がいうように、土佐藩の板垣退助を動かして薩摩との同盟を果たし、蟄居中の岩倉具視を薩長のネットワークに組み入れ、陸援隊を組織したのは、なんといっても中岡慎太郎一個の手柄であり、とりわけ吉田松陰と高杉晋作の「奇兵隊」の草莽思想の影響を受けた陸援隊の、万人に向かって開かれ、出入り自由という民主的である以上にアナーキーな組織原理が、中岡によって夢見られていた、と説く著者の語り口は魅力的である。

もしこの未完の偉大なる革命家がいましばらく健在で、この陸援隊の草莽原理が、軍隊の枠をはみだして大きく発芽し、わが国の政治原理の基底にまで喰い込んでいたら、と著者ならずとも誇大妄想的な「たられば」的初夢をエンジョイできるところが、この本の得難い変態性なのではあるまいか。


転配はわが本意にあらずという人思い墓地歩みけり正月三日 茫洋

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