照る日曇る日 第406回
ここに綴られている日本語表現がきわめて精妙でニュアンスに富み、これまで日本文学が蓄積してきた数多くの文化遺産の自由自在な引用から成り立っていることは間違いない。
また著者の文学的教養とその大脳前頭葉へのくりこみの錬度の高さは、本書の任意の頁のわずか一行の表現ひとつとっても明らかで、それが凡百のぼんくら作家どもの通常の文章を、粗野で洗練されない文飾と映るほどの出来栄えであることも否めない。
しかしそうであればあるほど、この人は、この無類の名文という武器を用いて、いったいなにごとを表白したいのかが、読めば読むほど分からなくなる。冒頭の一句から終止符までたしかに希代の美しくも繊細な詩文が羅列されているものの、行く川の水の流れの主体が誰であるのかを水に問うても返事が返ってこないように、著者本人をつかまえて
「いったいあなたはいかなる意図でこのような文章をまるで自動表記の機織りロボットのように垂れ流しているの?」
と尋ねても明確な返答はできないだろう。
無自覚で無意識のうちに書き下ろされた文章は、それが水のように透明で清冽であっても、いつまでも終わることにない文章表現の御稽古であり文学ごっこであり、あえていうなら修辞による自慰に類した行為にすぎない。
つまりこの文章にはHOWはあってもWHATはひとかけらもない。もっと正確に評せば、この小説のようなものは、なにをどう描いていいのかかがまだつかめていない未熟な文学少女の一習作に過ぎない。誰に何かを伝える意思もなく、ただただ蚕が白い糸を吐き出して己の裸身を繭の内部に閉じ込めようとしているだけのことで、このような文学以前の作文を珍重して、やれ新しい文学や文学者が誕生したなどと笛や太鼓で囃すのは、本人のためにも、世の中のためにもならないであろう。
30%オフですよと朝8時から連呼させられている新宿の女 茫洋
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