闇にまぎれてbowyow cine-archives vol.69&音楽千夜一夜 第176夜
1965年製作の、市川雷蔵主演のシリーズ第6作。柴田錬三郎の原作を安田公義監督が映画化しましたが、高峰を知るためには谷底を這いずりまわることも必要、という茫洋格言を地でいくような凡庸極まり無きルーチンピクチュアーです。
まあ元をただせば原作自体が黒ミサとか蛇使いの女忍者とか荒唐無稽なプロットの連発なので、これを映画にするにはシナリオの名人が必要であるにもかかわらず、星川清司の脚本があまりにも素人作文で芸がなさすぎるために、雷蔵と嵯峨三智子の「美貌」を鑑賞するしか能のない典型的なC級大映映画になり下がっています。
しかし当時のわが懐かしき観客たちは、「こんな品性下劣な娯楽映画」に手に汗握って満員立ち見で見物していたことを思うと、溝口や黒沢や小津や成瀬なぞの「名作」がいかに日蔭の華であったかが如実にうかがい知れるというものです。
「こんな俗物映画が映画だ」と信じ込んだ観客自体のこころ、それは平成の御代の音楽世界にも健在です。たとえば演歌やレゲエやラップやAORや今様の沖縄ポップスの単純明快な三三七拍子にいとたやすく飛びついて身をゆだね、多少の違和感を圧殺してそれを自主独立の自前の音楽と信じこみ、無反省に身体やのんどを振動させてゆく、自己投棄の内部におおきく横たわっている脱主体・反知性ワールドへの軽挙妄動です。
今年の紅白でいうと、嵐とかエグザイルとかの実存に相亘らぬ駄曲たちの世界。まあ桑田の新曲以外のたいがいの曲がそうでしたが、とりわけこれをおのれの人生の秘事として胸中に大事に秘匿すればいいのに、「トイレの神様」などという「迷曲」を作り、大衆の面前で恥知らずに延々と歌う「喉だけは素敵な素人」と、このこっぱずかしい稚拙な歌謡に拍手喝采大泣きする大衆の心根で、これらの対極に光り輝いているのが例えば友川かずきの「生きているって言ってみろ」の切り裂きナイフの突端であることは、もはや言うを待たないでしょう。
それはともかく日本映画の黄金期を下支えし、その凡庸さに改めて辟易した観客自体が映画会社のマーケティングに失望した瞬間に、日本映画の黄金時代は終わり、この低迷は現在もなお長期にわたって持続しているのです。
元に戻って、そんなに駄目でひどいこの映画にも褒め称えるべきキーポイントが2つありました。一つはその素晴らしい題名で、これを見た人は嵯峨三智子が全裸になって雷蔵を誘惑するのではないかと思うはず。もうひとつは私の親戚の時代劇俳優、五味龍太郎の名演技。悪役専門のこの名優が、眠狂四郎の「円月殺法」の血祭りになるシーンを一瞥するだけでもこの映画の価値はあるといえましょう。
ゆるやかに円弧を描く村正の一太刀浴びてゴミリュウ仆る 茫洋
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