闇にまぎれてbowyow cine-archives vol.80
1966年公開の大映映画で、原作は三浦綾子。当時の朝日新聞に連載されて話題になったが、いくら「汝の敵を愛せよ」をうのみにする正義漢?でも、自分の娘を殺した犯人の娘をわざわざ養女に迎えるような親(船越英二)はいないだろう。すべてはこの馬鹿な男とその友人の産婦人科が悪いのである。おかしいのである。私なら養女を迎えるどころかドスを呑んでその犯人を殺しにいくだろう。それが人間のノーマルな反応である。
こういう不条理な設定を考えるのは勝手だが、それをわざわざ小説や映画にする必要はないのではないでしょうか? 結局その娘陽子はリクエスト通りの犯人の娘ではなく別人の赤子だったわけだが、このクリスチャン作家は妙なプロットを無理矢理考えたもんだ。
そんな下らない映画なら見るのを止めればいいのだが、なにせ若尾文子と安田道代が出ているから、それにつられてとうとう最後まで見てしまった。
当然のことながらこの最初の無茶苦茶なボタンの掛け違いが、当の娘(懐かしの安田道代!)をはじめ、兄の山本圭、母親の若尾文子などに多大な苦痛と不安を与え、ついには決定的なカタストロフを迎えることになる。
たとえ親が殺人犯だろうが別人格のその子にはまるで無関係であっても、それを承知で平気で育てられるわけがない。娘が無邪気で性格が善良であればあるほど、夫婦の心の血は日に日に夥しく流されるようになるとともに、リアリスト山本薩夫の演出の餌食となる。
しかし私が思うに、この映画の登場人物のうち、終始いちばんまっとうな人物は妻ではないだろうか。その他は無邪気すぎる娘を含めて多少とも奇妙であるか異常な人物ばかりである。妻は最初は娘を溺愛し、真相を知ってからは娘をいじめたり、憎んだり、娘が好きになった好青年津川雅彦を誘惑しようとしたり、娘の首に手にかけようとしたりする、つまりはあまりにも普通の主婦なのに、原作者と脚本の水木洋子と監督は、よってたかって彼女だけを超悪役のように仕立てあげているのが、私には断じて許せないのだあ。
しかしまあそんな固い話はこれまでにして、妖艶無比な若尾文子の仇な姿と、父親の船越英二の目をくぎ付けにする安田道代(のちに大楠とおお化けする)のむっちりした肉体美も、このうえないご馳走でげす。
道代の太腿文子の裏返ったアルトにぞくぞく 茫洋
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