Wednesday, January 31, 2007

ある丹波の老人の話(1)

私の家は昔から不思議に男の子が生まれへん家でしてなあ、三代四代と養子を続けておりました。そこへ私が生まれたのでありますが、その私はまことにひ弱な、しなびたみっともない子でしてなあ、母は恥じて人には見せなかったと申します。

 それがどうにか育って青年になりはしたものの、やはり病弱で、徴兵検査には肺浸潤と診断されて兵役免除になり、せっかく勤めていた郡是もやめてしまいました。

父母は弟に面倒を見てもらうつもりで私をあてにせず、親戚の者からもせいぜい安月給取りになるくらいしか仕方がないと思われ、親譲りの下駄屋をやっていくだけの甲斐性もない者として、すっかり見くびられていたのがこの私やったんです。

それが古希に達する現在までなお健在で、これまでなんとかやってこれたことは、じつに見えざる神様のお導きとお守りのお陰であります。ここにこの広大無辺なるご恩寵に感謝し、なおまだ至らざる身に鞭打ちつつ、自らを修めて向上の一途を辿ってまいりたいと願っております。

母の眼病

 私が数えで十二のとき、三十三歳の母は四人目の子を産みました。

ところがこの子は育たず、そのうえに母は産後に眼を病み、眼はだんだん悪くなってとうとう失明してしもうたんです。

にわかめくらの不自由はたとえようもなく、私たち家族はなんとかして治そうと智恵をしぼりました。当時日本一の眼医者として知られた浅山博士が、京都府立医大病院の院長でごわした。

そいで急いで商売の下駄屋をしめ、父と私は弟と妹を親類にあずけて母をカゴに乗せ、二晩泊まりで京都に行ったんでした。東洞院仏光寺上ルの十二屋っちゅう宿屋に泊まり、翌日幸いなことに浅山院長に診てもらうことがでけたんどすが、「これはクロゾコヒといってとても治らぬ眼病です」と宣告されてしもうた。

母はがっかりして「もう死んでしもうたほうがええ」と泣き悲しみます。父も「どうしようか」と思案にあまって親子三人で途方に暮れておりました。(続く)

十二所の神々

鎌倉ちょっと不思議な物語40回


十二所神社の十二所は、「じゅうにそう」、または「じゅうにそ」と読む。「じゅうにしょ」は「敬愛なるベートーベン」ほど酷くはないが、間違った読み方なので念のため。

さてその十二所神社は、かつては時宗の一遍上人が開いた光蝕寺の境内にあって十二所権現と称したが、天保9年(1838年)に大木市左衛門の寄付した現在地に移転した。

一遍は紀州熊野神社本宮にこもって彼の時宗(一遍宗)を開いたので、時宗では本宮を中心とした十二所権現を各地の時宗寺院に勧請して祀ったのである。

その後明治の廃仏毀釈の際に権現を神社に改め天神七代、地神五代をもって祭神とした。

十二所の地名は、この神社に因んでいるという説と、この字の家の数が12であったという説とがある。(「十二所地誌新稿」より)

この神社には力士石があり昔の里人が力比べをした。また鎌倉石のきざはしが2重構造になっているのは珍しく、江戸期の寺社建築と本殿の軒下の木彫りは見事である。


さて20年くらい前に、私たち一家はこの十二所神社のすぐ隣に住んでいた。

秋の祭礼には大小の神輿が繰り出し、大勢の人たちが金魚掬いや綿飴やぼんぼりや出し物をお目当てにやってきた。

出し物の目玉はコロンビアやキングの売れない新人歌手だ。マネージャーに連れられてやってきて下手くそな、しかし哀愁のにじむ演歌を歌ったものである。

去年はたしかトンガかフィジーからやってきたフラダンス?が超目玉であった。

私はフラダンスはパスして、毎回子どもが描いたぼんぼりの絵と、寄進者の氏名と金額が書かれた立て札を眺めにいくことにしている。町内会が祭礼の寄進を求めるので、私は毎年1500円の寄付をしているのだ。

ところが驚いたことに、創価学会の家ではびた一文ださないのに、近所のカトリック修道院がいつも十二所神社に3000円の寄進をしている。世界に冠たる1神教のくせに寛容の精神がある、と感心していたが、さすがに去年はやめたらしい。

この修道院は前にも触れたように三代将軍実朝が創建し、永仁元年1293年の鎌倉大地震で壊滅した大慈寺の跡地に建っている。敷地は立ち入り禁止になっているが、修道女が瞑想しながら歩む裏山の小道にはいくつもの仏像が並んでいることを私は知っている。

今を去る800年前、実朝があの金塊和歌集の素晴らしい古歌を吟じ、蹴鞠に興じたその同じ空間で、グレイの僧衣に身を固めたシスターたちが、祭壇の父と子と精霊に額ずいているとはなんという歴史の皮肉であろうか。

Tuesday, January 30, 2007

贈る言葉

あなたと私のアホリズム その5

昨日は学校の最終講義だった。

まだ来週の試験が残っているが、いちおうこれでおよそ40人近くの学友諸君と訣別したわけだ。ほとんどの生徒とはこのSNSというメディアを除いては二度と会うこともないだろう。

彼らは学校を卒業し、どこかへ旅立っていく。けれども私は相変わらずここにとどまり、おそらくもうどこにも行かないだろう。私は「出発すること、それは少し死ぬことだ」というガストン・バシュラールの有名な言葉を思い出したが、出発しないほうだって多少は死ぬのだ。

年々歳々同じような「学生vs代わり映えしないあほ教師」という相関関係の中ではあっても、また、それが週にただ1度90分間だけの交わりであっても、春夏秋冬と1年間授業を続けていれば、そこには毎回ささやかな波紋が広がり、忘れがたい思い出のいくつかもそこここにちりばめながらお互いの記憶の深層にゆっくりと降りていくのである。

そうしてそれらの記憶は数年、いな数十年の時間を経て懐かしく回顧されたりもする。

私には人を教えることなどできない。いちおうはもっともらしく表層の知識の断片をノートに取らせたり、毎回演習問題をやらせたりしているけれど、そんなものは水はちゃらちゃら御茶ノ水、粋なねえちゃん立小便、のようなものですぐに忘れられてしまう。

残るのは教師の謦咳だけである。稀に彼が思いがけず発した片言隻句だけが誰かの胸にトゲのように刺さることがあり、それが教育的効果のすべてである。

だから教師はいつでも彼の実存をさらさなければならない。無様で醜悪な生き様を見せなければ反面教師にもなれないのである。

知識ではなく、生に向かって懸命に格闘している姿を90分間ライブでお眼にかけることが教師サービス業の本質であり、それを感得した若者は自分で自分の勉強を始めるのである。

昨日私は、授業の最後に黒板に

春風や 闘志いだきて 丘に立つ
 
という高浜虚子の句を書いて、前途有為な彼らへの別れと励ましの言葉に代えた。

そうして今日の午後、果樹園に散歩に行ったら、突然
「われ山に向かいて眼をあぐ」
という言葉がどこかから湧いて出た。

これは確か太宰治か聖書の文句だったと思うが、じつにいい言葉ではないか。誰もいない広大な果樹園の中、真っ青に澄み切った大空の下で聳える緑の山を見つめながら、ひさしぶりに私自身も「いざ生きめやも」という気持ちになったことであった。

 

Monday, January 29, 2007

インフィル不在の音楽論

インフィル不在の音楽論


♪音楽千夜一夜第9回

稀代の悪文で定評のあった塩野七生氏の「ローマ人の物語」がようやく15巻で完結し、もうこの人の醜い日本語を読む必要がなくなったといささかほっとしているところだ。

ところで全巻をつうじてローマ時代の芸術について触れることの少なかった著者だが、最終巻の104pで珍しく音楽について語っている。

塩野氏によれば、現在のドイツの西部と南部は古代ではローマ帝国に属していたので、ザルツブルグに生まれたモーツアルトも、ボン生まれのベートーヴェンもゲルマン対ローマの図式ではローマ側に入る。

しかしワグナーの生地であるライプチッヒは中世になってから生まれた町で、ローマが征服を断念したゲルマニアの奥深くに位置しているという。

また「ニーベリングの指輪」の登場人物たちはローマ帝国末期に北部から進入を繰り返していたブルグンド族であり、ワグナーの音楽がモーツアルトやベートーヴェンよりもゲルマン的に感じられるのはこの歴史的位置によるのではないか、というのである。

ちなみにバッハ一族はドイツ中部のチューリンゲンだからやはりモーツアルトやベートーヴェンの仲間であり、ワグナー音楽とは一線を画していることになる。

しかしこの伝でいくと英国のエルガーやデーリアスやブリテンは蛮族アングロサクソンの遺風を伝え、セザール・フランクやラベルやドビュッシーは同じ蛮族のフランク族的音楽を作ったことになる。

このように音楽を音楽家の生誕地によって差別化してその特色を論ずることはきわめてずさんな暴論であり、ローマ文化を主に政治、経済、戦争、社会のインフラなどの唯物的スケルトンから再構築する塩野氏ならではの手法ではあろうが、このようなアプローチは芸術と歴史文化の誤まった理解につながるばかりか個々の音楽家の芸術を鑑賞するうえで大きな妨げになる。
 
インフィル不在のローマ論を確立してローマ文化の何たるかを理解したつもりになったように、恐らく塩野氏は古今東西の音楽家のスケルトンだけを聴いて音楽を分かったつもりになっているのだろう。


♪反歌3首

新宿は他人ばかりの街である

鳶1羽我に愛する力あり 

類型を逸脱するは難くして♪桜桜とシャウトする歌手

Sunday, January 28, 2007

ぐあんばれ宮崎緑!

ふあっちょん幻論第5回&鎌倉ちょっと不思議な物語39回

鎌倉には数多くの有名人?が住んでいるようだが、その中の一人に宮崎緑さんという元NHKのキャスターがいる。

去年だったか駅前のケンタッキーフライドチキンの細道をこちらに向かって突進してくる顔のみならず全体が大きくかさばった女性がいた。眼には隈ができ、その青ざめた顔にことさら部厚い白い化粧をしていた。

そのときは誰だかよく分からず、まるで江戸時代の紋付袴姿の侍か、東洲斎写楽描く役者絵の巨大な凧のような印象だけを家に持ち帰ったのだが、数日前、新聞広告に登場した中年女性の写真を見て、その時の写楽が宮崎緑さんであったことを知った。

そして私は現物に出会ったときに受けた一種の異様さの謎がたちまち氷解するのを覚えた。彼女はあのときも、そして写真の中でも、ノーマカマリ風の肩パッド付きのジャケットを平然と羽織っていたのである。

「おお、懐かしや、肩パッドであるぞよ」と思わず私はうなった。

ご存知のようにこの種の肩が天空めがけて逆立った威嚇的なシルエットのジャケットは、疾風怒涛の80年代女性モードの代表選手であった。90年初頭までの「決して失われなかった黄金の10年間」を初代キャリアウーマン服飾史の輝く花形アイテムとして主導したのがこの逸品なのであった。

家人もこれらの肩パッド付きジャケットを何点か所有しており、それらを鏡の前で何度も羽織ながら、「でもやっぱりどこか変だよねえ」といいつつ泣く泣く処分したのが10年ほど前のことだった。

ちなみにこの肩パッドはそれを取り去ってもなおかつ「まだどこか変だよねえ」なのである。

ファッションが時代と共に変化するとき、いつでも誰でもがつぶやくのが、このセリフなのだが、驚いたことに宮崎女史はこの10年この「どこか変だよねえ」に無自覚であっと断じるほかはない。

80年代レディスモードをリードしたビッグシルエットは、90年代に入ると共に絶滅し、90年代の半ばにビッグからスリムへのシルエット転換が終了し、この同じトレンドがメンズに及んだのが00年代。そして去年からユニクロが展開しているスキニー(超細身)キャンペーンがそのファッション革命の総仕上げという流れなのだが、かの宮崎女史はこの時代変革にまったく無知であるか、あるいは知ってはいても微動だにされなかったのである。

ああ、なんと見上げた偉大なる人間国宝的存在であられることよ!

しかし世間を広く見渡せば、このように偉大な80年代的時代精神の持ち主は、彼女だけではない。超右翼の櫻井よしこ、社民党党首の福島みずほ、などといった偉大な論客たちも、イデオロギーの動向には敏感であっても、ことモードの巨大な地盤変動に関しては恐ろしいほど無自覚であることは、彼らのファションを見れば火を見るより明らかであろう。

しかしながらもっと恐ろしい?ことには、あるトレンドウオッチャーの予測によれば、あと数年も経てば、かの恐怖の肩パッドがパリコレで突如復権し、およそ20年ぶりにロイヤル・グラン・シルエット時代が戻ってくるかも知れないという。

そうなれば宮崎女史は、「超時代はずし者」ではなく、最先端のトレンドリーダーとして世界中の喝采を浴びるに違いない。

んで、その日がやってくるまで、そのままぐあんばれ宮崎緑!

Friday, January 26, 2007

♪土曜日の歌

犬ふぐりふぐり開かぬ寒さかな


今日もまた一人死にたり梅の花


佐々木眞少し死にゆく冬の朝


この国やあらゆるニュースはバッドニュース


この花の名前は何ですかと吹き来る風にわれ訊ねたり


不自由な右指伸ばし母がいう冬中咲くから冬知らずなの


中原の中也が死にし病院で定期健診今年も受けたり


吉永の小百合に誘われし夢を見たが固辞せる我に後悔はなし


なにゆえにアドレスすらすら口に出る我をリストラせしその会社の


コジュケイは飛ぶを拒否して足早に遠ざかる道を選びたり

Thursday, January 25, 2007

果樹園にて歌える

鎌倉ちょっと不思議な物語38回


梅一輪開かぬ林に入りけり

我らにも希望はありて梅つぼむ

果樹園の梅持ち帰るうれしさよ

果てしなき評定続くもぐらかな

しばらくはルソーの森に遊びけり

木陰にてキャミソール脱ぐチャタレイ夫人

水仙のごとき香りの君である

少年は今日も果樹園でチャタレイ夫人を待ち伏せしている

銀色の光あまねし相模湾船影はなく鳥影もなし

西は富士東は房総南相模北東京湾すべてを見たり

鎌倉ところどころ

鎌倉ちょっと不思議な物語37回


図書館の本が流れるので、自転車で取りに行った。

図書館の向かいの御成小学校は前にも紹介したように旧明治天皇の夏季別荘として利用されたが、後に葉山の別荘にとって替わられた。そのもっと昔は中世の国衙(行政センター)があった場所で、そのもっと昔は幕府の門注所があった。

御成りから小町の通りに向かって自転車を走らせると、左側に三味線屋さんが、右側に四季書林という古本屋がある。前者は大好きだが、後者は大嫌い。というのは、この本屋は国文学関連の品揃えでは定評があり、1冊1冊をパラフィン紙で包装するなど書物に対する愛情はあるのだが、店主が偏屈でいまどき珍しい「反お客様第1主義」なのである。

いつか私がぶらりと店に入ってあれこれ物色していると、店主が「何かお探しですか?」と尋ねたので、私が「いいえ、なんとなく見ているのです」と答えると、彼奴は「そういう人は出て行ってください」とにべもないご挨拶。実に不愉快きわまりない申しようだ。

私は思わずこいつを殴りつけようと思ったが、まあよそう、こんな客を大事にしない生意気な古本屋なぞすぐに倒産するだろうと思って、「ああ、そうかよ。おめえの店ではもお絶対に買わないからな」と捨て台詞を残して、早々に退去したのであった。

私はかつてこの店で角川文庫の「信長公記」を買ったこともあったのだが、そのときはこの男は不在で、彼の細君が番台にいたのでこんな嫌な気分に陥ることはなかったのであるが、その後考えれば考えるほど腹が立ってきてあれから一度も訪れたことはない。

思うに、この男は鎌倉文士や専門の研究者などにお得意がいるので、私風情の一般大衆なぞに自分が苦労して神保町で仕入れてきた貴重本を売りたくないのかもしれないが、それにしてもいまどき珍しい店である。

アホバカ古本屋にぺっぺと唾を吐いて角を右に曲がって少し行くと、なんと現役の刀鍛冶屋さんの刀剣店がある。それも第24代目の正宗様であるぞよ。

店の後が工房になっていて、私が通ったときもトテカン、トテカンと刀鍛冶が行われていた。もちろん鍛冶装束に身を固めたりりしいいでたちである。鎌倉ちょっと不思議な物語30回で、鎌倉時代のたたら製鉄の現場をご紹介したが、なんと800年後の同じ鎌倉市内のど真ん中でも同じ地場産業が孜々と続けられていたのであった。

正宗の鍛冶屋に別れを告げて須賀線の線路を越えると、驚いたことに、物語32回で紹介したおばけ屋敷が跡形もなく消えうせていた!

桑田変じて海となる、ではないが、木造建築と人間の若さほど速やかに消滅するものはない。かくて私の数枚のスナップ写真はたちまち往時を偲ぶ貴重なドキュメントとなってしまったのであった。

Tuesday, January 23, 2007

楽園への道

鎌倉ちょっと不思議な物語36回&音楽千夜一夜第8回


十二所の名所はなんといってもここ十二所果樹園だ。もともとはわが十二所村の所有であったが、最近市の史跡保存会が購入し、広大な山全体を手入れしている。

私は昔から果樹園やORCHARDという言葉が好きだったので、鎌倉に引っ越してきてこの果樹園が歩いてしばらくのところにあると知ったときには狂喜してよく子どもたちと出かけたものだ。

そして果樹園の門をくぐるたびに、私の耳には英国の作曲家フレデリック・ディーリアスのオペラ「楽園への道」の序曲がゆっくりと鳴るのだった。

果樹園では梅や栗が栽培され、そのほかにも多くの植物と動物が成育し、山全体をぐるりと周回する散歩道は起伏に富んで四季折々の色彩と景観を心ゆくまで楽しむことができた。初夏には梅、秋には栗が採れ、一般にも安価で販売されている。

私は昨日、今日とこの果樹園を久しぶりに訪れ、手入れのために伐採された梅の枝を捜したのだがとき既に遅し、ほとんど残っていなかった。10日ほど前にボランティアの人たちが作業した帰りに持ち帰ったらしい。残念。

しかしそれにしても園内のいたるところを縦横無尽に跋扈する台湾リスの数の多さには驚く。10年前には1匹もいなかったこの外来種はあれほど多かった様々な固有種の鳥たちを絶滅させ、ミカンの実を食べつくし、大樹の幹を剥いで裸にして枯らし、外部から行政が保存しようとしている自然の楽園を、その内部から食い殺そうとしている。これでは梅や栗の果樹の収穫が危ぶまれる。

もうひとつ問題なのは果樹園にいたるまでの道端にひしめく資材置き場だ。この地は本来は国の史跡なので家屋はもちろん耕作、資材置き場、物置などに使用してはいけないのに、市長が保守系に代わった途端に所有者が土建会社や園芸業者などに勝手に貸し出し、大型トラックやブルドーザーなどが出入りしたり、産業廃棄物が放置されたり、太刀洗川への不法ゴミ投棄や無許可開拓や農耕などが野放図に行われるようになった。

今日もまるで中古自動車修理工場のようなバラックのあちこちで焚き火が行われ、大量のダイオキシンが空中に飛散していた。最近は鎌倉駅東口に「友情」というモニュメントを寄付した彫刻家のI氏の巨大なアトリエが果樹園の入り口に完成し、我ら善男善女の立ち入りをえらそうに禁じている。これも立派な不法建築のひとつであろう。

果樹園の果樹食い尽くしてや台湾リス

幻のつつじ

遥かな昔、遠い所で 第2回


郷里の我が家から田町の坂を登って質山峠を越えていくと、どこやらの山の1画が我が家の所有地になっていて、そこでは10年くらい前まで丹波名産のマツタケが採れた。

マツタケははじめのうちはなかなか見つけられない。図鑑などで見た概念だけが視野に見え隠れして実際の現物の発見を邪魔するのだろう。しかしなにかの拍子にそれは目の前に現れる。

「あ、あったぞ。ここにもあった」

大人も子どもも急な斜面を駆け登り、駆け下りながら、赤松の木陰のあちこちから顔を覗かせる大小の香り高いマツタケを競争で採った日のうれしさは格別だった。

マツタケの季節はもちろん秋だが、このマツタケ山に、なぜかきょうだい3人で初夏に登ったことがある。いまは亡き小太郎さんという祖父がわれわれを連れて行ってくれたのであった。

空は青く晴れ上がり、風はまったく吹かず、蒸し暑い日であった。
私はマツタケが採れる斜面とは反対側の山麓で途方もない大きさの見事な枝振りの赤と橙色の中間色をいした山つつじを発見した。

「これを持ってお家に帰ろう。この素晴らしいお化けつつじを小太郎さんと祖母の静子さんにプレゼントしよう」

そう決意した私はずいぶん長い時間をかけ、少年の身に余る超人的な努力をしてとうとうその赤いつつじの樹を根本から引きぬくことに成功した。

そしてそれを山のてっぺんまで懸命に引っ張りあげようとしたのだが、つつじの枝と葉の分量があまりにも多すぎて、途中の松や様々な広葉樹や草の根などのあちこちにひっかかって、とうとうある個所で押しても引いても動かなくなってしまった。

「もう帰るぞお」とみんなを呼び集める小太郎さんの声がする。私はとうとうそのおばけつつじをその場に放棄して、必死で山の尾根まで戻ったのだった。

私に引き抜かれたあのつつじはどうなったのだろう。もちろんそのまま枯れて死んでしまったに違いない。そんなことならそのままにしておけばよかったのに、と後悔したが、もう後の祭りだった。

私は時折、つつじの強烈な芳香にむせ返りながら坂を登る、私のような少年の姿を夢に見るときがある。

Monday, January 22, 2007

♪トラベルセットが当たる

音楽千夜一夜 第7回


「朝は四足、昼は二本足、夕方は3本足のものは何?」というスフィンクスの問いに「それは人間だ」と正答したのは父を殺し母と交わった古代ギリシアの王、オイデップス。

「暗い闇夜に飛び交い、暁とともに消え、人の心に生まれ、日毎に死に、夜毎に生まれるものは何?」というトゥーランドット姫の第1の問いに、「それは希望だ」と答えたのはカラフ王子。

「一日にも四季がある。朝は春、昼は夏、午後は秋、そして夜は冬である」
と語ったのは、ロシアのチェリスト、ロストロポービッチ。

みなさんなかなかうまいことを言うもんですね。

さて、そのロストロも、カザルスも、坂本龍一もバッハの無伴奏チェロ組曲が至高の名曲であるという。

だがロストロの演奏も、カザルスも、ヨーヨーマも、坂本が薦める藤原真理の演奏も、私を限りなく退屈させる。

退屈しなかったのは、かつて資生堂が「♪トラベルセットが当たる」というプレミアムキャンペーンのときに使用した第6番のアレンジを耳にしたときのみ。

同じバッハの平均律クラビールやオルガン曲やカンタータは限りない喜びを与えてくれるというのに、大好きな作曲家であっても、大の苦手の曲があるというのが不思議だ。

Saturday, January 20, 2007

遥かな昔、遠い所で 第1回

私の実家は丹波の田舎だ。そこでは長らく下駄屋をやっていた。
02年に三代目の母が亡くなったあとたたまれた店は、いまも「てらこ」という屋号で町の目抜き通りに残ってはいるが、もはや訪れる客も店の新しい主人もいない。

外見も中身もそんな古式蒼然とした商店であるが、世間の人がまだ和服を愛好していた遠い昔の時代には、大勢の客が「てらこ」の下駄や草履をあらそって買い求めた夢まぼろしのような日々もたしかにあったのである。

年に1度の「えびす祭り」の大売出しの日の賑わいは今も私の眼の奥に残っており、3人きょうだいの幼い私たちが、「いらっしゃい、いらっしゃい」と声をからして店頭を行く通行人の呼び込みをした日のこともかすかに覚えている。

「てらこ」の下駄は品質が上等で、とりわけ父がすげる鼻緒はいつまでも緩まず両足にフィットして履き心地がよい、というので定評があった。母はそんな父をしっかりと支えるようにして一緒にお店で働き、いつも二人で他愛ない世間話に興じていた。

そんなある日のことだった。たまたま父と私が店にいると腰の曲がった80歳くらいのよぼよぼのおじいさんが、見るからにくたびれた格好でやって来た。そうして文字どおり弊履のごとく古く汚れた下駄をニスが塗られた部厚い木製のカウンターの上にどさりと乗せると、こういった。 

「やあてらこはん、どうもこんちは。おたくの下駄はほんま長いことよおもったわ。わいらあなあ、もう何年も何年も履いたんやが、とうとうこんな姿になりおった。ほいでな、今日はこの古いのを新しい奴に取り替えてもらおうおもて、はるばるバスに乗って町までやって来ましたのや」

はじめのうちは私たちは彼が何を言わんとしているのか分からなかった。しかししばらくしてから、彼が大昔にてらこで買った下駄が古びたら、てらこでは無償で新品に取り替えてくれるはずだ、と確信していることを知ってさすがに驚いた。

父は、「この下駄はもう古くて修理できないし、あなたが希望するようにただで新品と交換することもできない」、と汗だくになって言い聞かせるのだが、くだんの老人はいつまで経ってもそのまっとうな商人の言い分を理解したり、納得しようとはせず、まるでサントリーのボスのテレビCMに出てくる宇宙人ジョーンズ氏を眺めるような目つきで、いぶかしそうに父を見るのだった。

さまよえる酩酊船

改めてアルチュール・ランボー(1854-1-91)の言葉に耳を傾けよう。
安政元年に生まれ明治24年、大津事件が起こり、幸田露伴が「五重塔」を書いた年にマルセイユの病院で右足関節腫瘍で37歳で死んだ詩人のマニュフェストだ。

見者であらねばならない、自らを見者たらしめねばならない、と僕は言うのです。詩人はあらゆる感覚の、長期にわたる、大掛かりな、そして理にかなった壊乱を通じて「見者」になるのです。あらゆる形態の愛や、苦悩や、狂気。彼は自分自身を探求し、自らのうちにすべての毒を汲み尽して、その精髄のみを保持します。

それは全き信念を超人的な力のすべてを必要とするほどの言い表しようのない責苦であって、そこで彼はとりわけ偉大な病者、偉大な罪びと、偉大な呪われびととなり、そして至上の学者になるのです。

なぜなら彼は未知なるものに至るからです。というのも彼はもう既に豊かだったその魂を、他の誰にも勝って涵養したのですから。彼は未知なるものに達し、そして彼が狂乱してついに自分の様々なヴィジョンについての知的理解を失ってしまうとき、彼はそれらの視像をたしかに見たのです。

前代未聞の名づけようもない事象を通じた彼のそんな跳躍のただなかで、もし彼の身が破裂してしまうなら、それはそれでよいのです。他の恐るべき労働者たちが後に続いてやって来ることでしょう。彼らは他の者が倒れた地平線から開始するでしょう!

それゆえ詩人とは真に火を盗む者なのです。詩人は人類を担っており、動物たちさえも担っているのです。
彼は自分が案出したものを感じさせ、触れてみせ、耳に聞こえさせねばならないでしょう。もし彼が彼方から持ち帰るものに形態があれば、彼は形態を与えます。もしそれが無形態であれば、無形態を与えるのです。

ひとつの言語を見出すことです。どんな言葉も観念なのですから、ある一つの普遍的な言語活動の時代が来ることでしょう。このような言語は魂から魂へと向かうものでしょうし、一切を、もろもろの匂いも音も、色彩も、すべて要約しており、思考をつかみ、引き寄せるのです。

詩人はその時代に万人の魂のうちで目覚めつつある未知なるものの量を明らかにすることでしょう。彼はより以上のものを、つまる自分の思想を言い表す定式や、進歩へ向かう自らの歩みを書き留めた表記などを越えた、それ以上のものを与えるでしょう。常軌を逸した莫大さがふつうの規範になり、あらゆる人々に吸収されてまさに詩人は進歩を倍増させる乗数になることでしょう! 

そうした未来は、唯物論的でしょう。つねに韻律的な数と調和に満ちており、いくぶんかはギリシア詩であるでしょう。詩人たちは市民なのですから、永遠なる芸術もその様々な機能を持つことでしょう。

詩はもはや行動にリズムをつけるものではないでしょう。詩は先頭に立つものとなるでしょう。そのような詩人たちが存在することになるでしょう。

 
1871年の5月15日、おりしもパリ・コンミューンがペール・ラシェーズ墓地で崩壊する「血の1週間」のさなかに、17歳のランボーがシャルルヴィルで友人ポール・メドニーに書き綴った手紙が、詩人の詩と生涯の真実を正確に鮮明に物語り、その悲劇的な結末さえ見事に予言している。

ランボーは、自らが宣言したとおり、その生涯をつうじてつねに詩の先頭に立った。そして詩の本質を直感し、詩の至純の世界を体得したランボーは、詩の世界にあきたらず、詩そのものを生み出す豊潤で混沌とした現実世界に向かって、彼のさまよえる狂気の酩酊船を船出させ、まるでそれが宿命であったかのように見事に座礁させたのだ。それが彼の足掛け15年に及ぶアフリカでの貿易商売の持つ意味である。

ランボーはエチオピアのハラルを拠点に、象牙、銃、綿、コーヒー、シチュー鍋、馬、ロバ、虎、ライオン、騾馬、麝香等々、ありとあらゆる物資を交易し、アフリカでのビジネスがうまくいかないので、エジプトを経てはるか当方の中国、日本まで遠征しようと考えていた。もし彼が明治20年代のわが国を訪れたならきっと西洋と東洋の新しい出会いがあったに違いない。

けれども砂漠に逃亡した孤独で不運な詩人は、悪賢い商売人たちにうまくしてやられ、結局はさしたる利益を上げることもできなかった。のみならず過酷な気候と不慣れな生活の中で健康をむしばまれたランボーは、野蛮人に囲まれた文化果つる不毛の地で右足を切断され、極度の苦痛と高熱にさいなまれながら、余りにも短すぎた過酷な生を閉じたのである。

ほとんど意識を失い、錯乱しながら「郵船会社支配人」宛てにマルセイユの病室で口述筆記されたランボー最後の手紙(1891年11月9日)は、彼の生涯最後の瞬間における見果てぬ夢の極北の姿を痛切に伝え、彼の有名ないかなる詩篇よりも感動的である。


分け前 牙1本だけ。
分け前 牙2本。
分け前 牙3本。
分け前 牙4本
分け前 牙2本。

支配人殿、
貴殿との勘定に未払い分がないかおたずねします。私は今日、この船便を変更したいと思います。この便は名前すら知りませんが、ともかくアフィナールの便でお願いします。
こうした船便はどれでも、どこにでもあります。それでも私は手足が不自由な不幸な人間であり、何も自分では見つけられないのです。街頭で出会う最初の犬に聞いても、そのとおりだと答えるでしょう。
それゆえスエズまでのアフィナールの便の料金表をお送りください。私は全身不随の身です。したがって早い時刻に乗船したく思います。何時に船上へ運んでもらえばよいかお知らせください……

この手紙が書かれた2日後、詩人という名に値する唯一の詩人ランボーは息を引き取った。

*参考文献「ランボー全集」青土社 平井啓之、湯浅博雄、中地義和、川那部保明訳

Thursday, January 18, 2007

スミレ咲く

鎌倉ちょっと不思議な物語35回


熊野神社ではもう可憐な山スミレが咲いていた。十二所の山際の崖ではたった1輪が薄紫の花弁を風に揺さぶられていた。

今年も暖冬らしい。十二所のガソリンスタンドで尋ねたら1.8リットル当たり1580円だそうだ。ひと頃よりだいぶ安くなってきたようだ。

さて今日は超くだらない話をしよう。(もっともいつもくだらない話なのだが…)

近くのガソリンスタンドには丘の上に住んでいる超多忙の有名人Mモンタ氏が給油にやってくることがある。そうしてこの男は、給油中、まるで歌舞伎の千両役者のようにかっこつけて、文字通りに見得を切っている。

するとその異様なポーズに気づいた近所のおばさんが、「あれ、あの人モンタじゃないの。え、ほんとうの本物?」」などといいながら近づいてくる。

するてーとくだんのモンタ氏は、やっとそのヒトラー&ムッソリーニ時代の男性塑像のような奇妙な姿勢を解除して、突如営業用のスマイルをにゅっと浮かべつつ、「奥さああん、僕にサインしてほしいのおお?」とかなんとか叫ぶのである。

売れっ子はつらいね。それにしても年が明けたというのに、どうしてこっちには仕事が回ってこないんだろ?

Wednesday, January 17, 2007

♪木曜日の歌

ランボオのような眼をした少年だった

子が父を殺めたくなる野の小道

アポロンの信託は知らず寒椿

まむし眠る谷戸に降りつむ椿かな

電光影裏タイワンリスの邪悪な眼よ

世の中はもっともっと悪くなる鴨

陽だまりに愛を乞うる人多く

わたしはたんぽぽの好きな人が好きだ

あけおめと書き来しメールにことよろと返す勇気われにはなくて

米国の猿面冠者が打つ博打こいつは春から凶と出るか

Tuesday, January 16, 2007

追悼

二人の白い巨人が土俵に上った。それぞれがわれこそは世界最強の戦士だ、と喚く。

やがて二人の力士は立ち上がってがっぷり4つに組み合ったがそれっきり微塵も動こうとはしない。

周囲の人々は懸命に声援を送り続けたが、力士はたらたらと汗をながすだけで相変わらず動こうとしない。

そのまま時が過ぎ、やがてあたりはとっぷりと暮れたので観客はみな現場から引き揚げた。やがて真っ暗な野原に月が昇り地面をぼんやり照らし出したがそこには誰もいなかった。

親しい人が突然病気になったり、思いがけない事件に巻き込まれて大勢の人々が亡くなったり、当の本人も目の前が暗くなって急に倒れたりする。

死んだ人のことは忘れようとしても忘れることはできないのだが、それでも朝が来て、太陽が輝くと、いつのまにか未曾有の災厄も次第に忘れられたかのような気がするので、無理矢理すべては何もなかったのだ、などと懸命に思い込んで、虚妄の日常性の中へ逃げ込もうとする。

けれども死ほどの一大事が生にとってあるだろうか? 愚かな私よ、そこでしばらく眼を覚ましていろ。

Monday, January 15, 2007

♪ コインの歌

♪ 1円玉
吹けば飛ぶよな アルミの独楽よ
風に吹かれてくるくる回る ほんにお前は屁のような

♪ 5円玉
餓鬼道、修羅道、畜生道、因果は巡る風車 
ここで会ったが百年目 ご縁があれば涅槃で待つぜ

♪ 10円玉
誰でも気軽に賽銭投げるが 本気であたいを投げられるかい
これで分かった世間の常識 願いの沙汰も10円未満

♪ 50円玉
10円、100円は善良なる市民 おいらはどうせしがない風来坊
遠き島より流れついたるアシの実ひとつ

♪ 100円玉
英語でハンドレッド フランス語でサント
一緒に行こうよ100円ショップ
100円あればなんでも買えるが なぜだか買えない君の愛

歌舞伎座の建て替えに反対する

勝手に東京建築観光・第4回


わが国が世界に誇る最高、最大の芸術は、やはり歌舞伎であろう。

江戸のオペラともいうべきこの歌と踊りとお芝居の総合芸術ほど私の心をかきみだすものはない。
私がもしも大好きなモーツアルトのオペラと歌舞伎のどちらを選ぶか二者択一を迫られたら、やはり後者を選ぶであろう。

舞台に歌舞伎役者なんていなくても下座音楽と浄瑠璃があればいいのだ。いや杵の音がひとつ鳴ればいい。私はもうその瞬間にどこかこの世ならぬ世界、できればもう戻って来たくはない遠い遥かな時空に連れ去られるのである。

その点では98年に惜しくも100歳で亡くなった清元志寿太夫(きよもと・しずたゆう)、01年に桜花とともに散った6代目中村歌右衛門、そして昨年12月に冥界に消えた松竹の偉大なるプロデユーサー永山武臣のお三方は、わが歌舞伎界にとって埋めがたい大きな損失であった。

歌右衛門「桐一葉」の名演はいまでも瞼の裏にありありと残っているし、最晩年の志寿太夫の渋い声音も、まるで平成のファルスタッフのように融通無碍なたたずまいとともに生涯忘れることはあるまい。

ところが私にとってそんな貴重な夢を見せてくれた築地の、いや木挽町の歌舞伎座が、もうじき取り壊して立て直すという。

どうせ高層ビルにしてもっと巨大なエンタメセンターにでもしようというのだろうが、お願いだからやめてくれ。

この2600人を収容する和風建築は中宮寺本堂や大磯の吉田茂邸、大和文華館、わが鎌倉の吉屋信子邸を作った名匠吉田五十八の代表作であるぞ。

1950年に完成したばかりだぞ。しかもその音響の素晴らしさは恐らくこの大空間では日本一、いや世界一かもしれんぞ! 

二度と再現できない奇跡の殿堂なんだじょお! あの歌舞伎座と魚河岸があるから銀座なんだぞお!

Sunday, January 14, 2007

巡り合い

鎌倉ちょっと不思議な物語34回


20002年2月に消えたうちのムク ここにいたのかかわかわのムク

駆け寄りてムクやムクやと呼びかければ 空に向かいてピンと尾をあぐ

Saturday, January 13, 2007

生きるよろこび

鎌倉ちょっと不思議な物語33回&音楽千夜一夜 第7回


例のオオウナギ棲息地の近所に鎮座ましますのは、室町時代中期の仏様である。

この御仏は、それまでは人知れず小さなやぐらの奥で眠っていたのだが、ある日突然Oさんという老ピアニストが突然周囲を開拓し、参道を切り開いてお花を捧げるようになった。

なんでも亡くなった奥様を回向するために、個人的にこの古仏をよみがえらせたそうだが、最近は通りすがりの酔狂なハイカーが賽銭を供えたりしている。

Oさんの専門はジャズだが、クラシックも得意で、私が太刀洗に散歩に行くとリビングルームからショパンや私の好きなリストの超絶技巧練習曲が聴こえてくる。まるでその演奏はラザール・ベルマンかシフラみたいだ。

去年の鎌響の演奏会では宮沢明子がモーツアルトの24番のコンチエルトを弾いたのだが、どういうわけだか第2楽章の途中であの名手の腕が突然乱れて冥界に明快に迷走し、しばらくは元の楽譜に戻れなくなってしまった。(ような気がした。私はオタマジャクシが読めないので正確なことはわかりません)

ピアニストと指揮者は相当うろたえていたようで、私もさあどうなるのかと息を呑んだが、ここで鮮やかな火消し役を務めたのは、頭の禿げたコンサートマスター。いきなり立ち上がって弓を高く掲げて一閃したために混乱は収まり、めでたく事なきを得た。

会場に居合わせたOさんと私は、この珍しいハプニングをことのほかよろこんだ。

だってせっかくのライブで戦前の国定教科書のような演奏を聴かされたってつまらない。

これくらいの逸脱と椿事が起こるから聴衆はくそ面白くもない人生にいささかの興奮を覚えるのである。もとい、生きるよろこびを再確認するのである。

面白きこともなき世におもしろく、すみなすものは心なりけり(高杉晋作+野村望(もとに)東尼)

Thursday, January 11, 2007

ある蛇の歌

今年の冬は遅い。

ゆっくり朝寝をしたら、午後からは散歩に出よう。

大気は胸に冷たく透き通り、柔らかな光が君の漠然とした不安をなだめてくれるだろう。

君は緑に包まれた楽園をめざしてどんどん歩いていくだろう。

道はゆっくりと左に曲がり、やがて右に曲がるだろう。

そしてその道が峠の頂に着くまでに、君は1匹の蛇になっているだろう。

たいしたもんだ。君はもう長い長い立派な蛇だ。

だから、君はもうけっして昼寝をしてはならない。

うっかり誰かに輪切りにされないように……


やわらかな光あふれる山道をゆるりとくねるわれもまた蛇

歌うよろこび

音楽千夜一夜 第6回

音楽の本質とは、内部生命が歌うことではないでしょうか?

音楽とは、私の心がなぜか生きる喜びに満たされ、その喜びと幸せが原動力となって無意識に歌いたいという衝動が生まれ、自分でもそれと気づかないうちに「歌のようなもの」が胸から流れてのどまでのぼり、くちびるから外界に向かって自然に放たれるさま、を指すような気がします。

 つまり、「鼻歌をフンフンする」ことこそが「音楽すること」「音楽を生きること」の原点ではないでしょうか?
 
台所でお料理を作っている家内が歌っている下手な歌、あるいは歌のようなものを聴く時ほど私にとって幸福な瞬間はありませんが、恐らく当の本人もきっと小さな幸せの絶頂にいるのでしょう。
 
幸福な人がその幸福を歌うときに感じる幸福。これこそが現初期の音楽の誕生と交流の原点なのでしょう。

しかし翻って現在の演奏家と聴衆の関係を考えるとき、このうるわしい交流がどこまで実現されているのかはなはだ疑わしいものがあります。

例えばクラシックの世界ではN響がプロの頂点であるといわれているようですが、彼らの演奏を聴いても、今も昔も本当に彼らが音楽をする喜びを共有しているのかよく分かりません。なんだか誰かに命令されていやいや楽器を職業的に操作しているような気もします。
だからというわけでもありませんが、大学やアマチュアの人たちの演奏は技術的には下手かもしれませんが、音楽することの楽しさにみちあふれていて、そのエネルギーがまっすぐに聴衆に伝わる。それはとプロ野球がとっくの昔に喪失したスポーツのよろこびが高校野球や小中学生の草野球にはまだ辛うじて残っているのと似ています。

考えてみれば、心が音楽するよろこびにあふれる瞬間なんて数えるくらいしかないのに、それでも毎日毎晩楽しげに演奏するほうが無理がある。歌いたくないカナリアにコンサートを強制するようなものですからね。 

はじめは好きで好きで仕方なかった音楽だけど、それを職業として選び取った途端に、その快楽が苦痛や苦行に似たものに転化する。そういうことかもしれません。

それは音楽だけでなくファッションやデザインや広告やその他ありとあらゆる産業の領域に共通する皮肉かもしれませんが。

まあそんな話はともかく、私は毎日鼻歌を歌いながら生き、鼻歌を歌いながら死にたいなあと夢見ている次第です。

Wednesday, January 10, 2007

さようならお化け屋敷

鎌倉ちょっと不思議な物語32回


市役所に行ってバリウムを飲んで胃検診を受ける。

以前はレントゲンを一枚撮ってからまずいバリウムをコップ一杯飲んだような記憶があるが、今日は最初から有無をいわさず呑まされた。

お棺のような半月形の筒に収納されて、ぐるぐる回転する。「右から回って」と命じられるのだが、頭の悪い私にはどっちが右回りかいつも分からないので、とりあえず回転すると、「そうじゃない。その反対です」などと技師から怒られる。

これでは知恵遅れの人は対応できないだろうに、といちおう健常者のつもりの私が大汗をかいていると、突然「息を止めて」と命じられる。どこで呼吸してどこで息を吐くのか、そのタイミングが難しい。

またしても猫じゃ猫じゃ、とぐるぐる回りさせられていると、途中で逆さまになって頭から落下しそうになるのを懸命にこらえる。

これは危険だ。まるでサーカスだ。ゆあーん、ゆあーん、ゆあ、ゆよーん、状態だ。

これまで70-80歳代のお年寄りが何人も死んでいるのだろう。くわばら、くわばら。

やっと墜落の危険から解放され、自転車で駅の手前の踏み切りにさしかかったら、お化け屋敷の上空にいつも乱れ飛ぶ鳩は今日は一羽もいなくて、代わりに解体業者のトラックがいままさに門の中に突入しているところだった。

ああ、鎌倉名物の幽霊屋敷もこれで一巻の終わりか。なんでも有名な医院だったらしいが、恐らく昭和初期に建てられたのであろう、塔の壁をはじめあちこちに施された粋な装飾が好ましい。ちょっと築地の聖路加病院のデザインに似た要素も感じられる。

私は安藤忠雄や磯崎新が設計した新しい建築にも大いに興味があるが、やはり心惹かれるのは自然に抱かれるようにしてつつましく建っている古くて懐かしい低層木造住宅である。

機能性、実用性、安全性は別にして、私は兼好法師や鴨長明が住んだ庵に住みたいが、積水ハウスやライオンズマンションや大和ハウスが土建したもの、カーサブルータスが特選したかっこいいデザイン住宅などにはできたら住みたくないのです。

もっとはっきりいうと、私は夏目漱石が設計した桃源郷の一軒屋に住みたい。彼は自分が理想とするついの住処を南画や山水画で描いているが、それは禅僧が好んで修業する断崖絶壁の破れ家である。

漱石は本当は英文学者ではなく、建築家になりたかった。(その代わりに私たちはあの素晴らしい「文学論」を得たのだが)

もしも彼が「偉大なる暗闇」の忠告などに惑わされず、その希望を断固として貫いていたら、恐らくコンドル→辰野金吾→丹下健三を主流とする日本近現代建築の歴史は大きく書き換えられることになっただろう。

Tuesday, January 09, 2007

よみがえるモーツアルトの精霊

音楽千夜一夜 第5回


いまパソコンでモーツアルトの「ミサ曲ハ短調K427」の演奏を聴いています。指揮は長老チャールズ・マッケラス、演奏はジ・エージ・オブ・エンライトメント・オーケストラ。
この夏英京ロンドンのアルバートホールで開催された「プロムス2006」でのライブの再放送ですが、これがまた途轍もなく素晴らしい。
  
私が普段聴いているこの曲はフリッチャイ&ベルリンRIAS響のグラムフオン録音ですが、これほど劇性は高くないものの、マッケラスはモーツアルト演奏には絶対に欠かせない“適正なテンポ”をきちんと守り、生気あふれる“モーツアルト魂”の流麗にして暖かなメロディーラインを心ゆくまで歌わせています。
この“モーツアルト魂”をちょっと頭がいいばっかりに考えすぎて圧殺している神経衰弱病のアーノンクールやラトルやマゼールや単細胞突貫小僧の小澤、バレンボイムやムーティ、メータなどが、もう3回生まれなおして指揮者になったとしても到底達成できないだろう芸術の至高の境地、秘密の花園に遊ぶ仙人の演奏です。

マッケラスは日本人にはあまり人気がないようですが、彼がプラハのオーケストラと入れたモーツアルトの交響曲全集(米テラーク)や同じプラハの国立オペラとライブ収録した「ドンジョバンニ」のDVD(タワーで1890円!)などに接すると、その真価の一端が窺えると思います。

Monday, January 08, 2007

苔のむすまで

鎌倉ちょっと不思議な物語31回

以前にもご紹介したように、私の自宅は元は鎌倉石の石切り場であった。

鎌倉石というのは房州石と同様、割合に柔らかで加工しやすい凝灰岩からできていて、寺の五輪塔や石段はおおかたこれで造られている。

また鎌倉石は、昭和の初期に大谷石にとってかわられるまでは、東京の「かまど」の素材として大いに活用されたが、関東地方に「輸出」された鎌倉石の大半が、わが朝比奈峠を経由して金沢文庫の近所の六浦港から船で運ばれたに違いない。

このように地元では鎌倉石は有り余っていたのに、不思議なことに礫岩(玉石)をほとんど産しなかったので、鎌倉時代から近辺の相模川系の川原などから大量に「輸入」していたらしい。
今日の午前11時に私が踏みしめていた朝比奈峠のこの玉石たちも、もちろん外部からの輸入品である。

この峠の改修は、鎌倉時代から江戸時代まで都合3回行われたが、それ以後はまったく人工の手が加わっていないはずなので、この苔むした石は鎌倉時代あるいは下っても江戸時代の石である可能性がある。

実朝や日蓮が歩んだこの峠道を私は今日も歩いている、などというと文学的な比喩として聞こえるかもしれないが、そうではない。文字通りに彼らが歩んだ道そのものが物理的に現存している。

このように考え、感じる人にとって、朝比奈峠とは、その組成自体が800年前のまんま平成の御世に伝えられた奇跡の文化遺産なのである。

Sunday, January 07, 2007

不相応な天からの贈り物

あなたと私のアホリズム その4

日本国憲法の序文と第9条は、たぶんいかれぽんちの米国の理想主義者の脳裏に浮かんだ一瞬の夢だった。

しかしそれはなんと美しい、まるで7色の虹のような夢であったことだろう。

私はこの条文を目にするたびに、かつてベートーヴェンが「歓喜の歌」で歌った人類の恒久平和を希求する高らかな調べを想起する。

アジアの片隅のこの不思議な国は、世界中の誰もが生涯に一度は高らかに歌うことを夢に見、しかしついに楽譜には書かれなかった20世紀の奇跡のアリアをなんと60年間にわたって、たった一人で、アカペラで、歌い続けてきたのだ。

また私は、私はこの条文を目にするたびに、かつて「他者の暴力に対する無抵抗」を説いた父聖徳太子の遺訓に従って、潔く蘇我入鹿に殺された山背大兄皇子とその一族の勇気を想起する。

 「眼には眼を、歯には歯を」が常識の世にあって、自らの非武装と自己犠牲を武器として他者の暴力に倫理的な優位に立とうと試みた真の理想主義者は、仏陀の教えをまともに信じたこの山背大兄皇子とマハトマガンジーだけであり、日本国憲法の第9条はその「捨身飼虎」の思想を受け継いでいる。

だから、日本国憲法は、急にせちがらい現実とやらに目覚めて“普通の国の普通の人”になりたくなった日本人にとっては、お荷物そのもの。所詮は猫に小判、豚に真珠、夢のまた夢、の天から降ってわいた傍迷惑な贈り物であったのである。 

Friday, January 05, 2007

2007年正月の歌

2007年正月の歌

猪は悲しきものよ幾たびも己が額を壁に打ちつく
ついに鎌倉では産院絶ゆうろたえて町をさまよう多くの妊婦たち
耕君をとりあげし針谷産婦人科なんとかマンションに身売りしけり
江ノ電は嬰へ長調、横須賀線はイ短調で踏切が鳴ると教えてくれたうちの耕君
耕ちゃんをいじめるような人は好きになれないわと美枝子つぶやく
正月に思うあの日あの時あの人に告げておくべかりしあのこと
少しずつ死にゆく人の貌をしてわれひとこぞりて小町を歩めり
死者は眠れ生者はめざめよと正月の古都に降りしきる雨
心さえあらばたとえ生きたえしのちもわれらが思い空に響かん
いざや行かん八幡宮より果てしなく続く一本の道

Thursday, January 04, 2007

ここで中世のたたら製鉄が行われていた

鎌倉ちょっと不思議な物語30回


「たたら」とは鉄を製錬するために鉄を吹く「ふいご」のことですが、そのふいごを使う古代の製鉄技術全体をたたらと呼んでいます。


たたら製鉄とは日本古来の独自の製鉄法で、千年以上の歴史を誇っています。

最初は古代の九州や出雲地方から始まったといわれますが、鎌倉時代には他ならぬ太刀洗の「鑪ヶ谷」(たたらがや)という名前の低い丘で、中世を代表する製鉄が行われていました。

当時の人々はこの丘の平地を切り開いて山から下る渓流を利用しながら最高1500度の高熱で砂鉄を木炭で焼き素鋼塊(そこうかい)や銑鉄を生産し、日本刀などの原材料として加工していたのです。

たたら製鉄の高度な技術の原型は鎌倉時代に確立され、江戸時代中期に完成しますが、この国産技術をベースにして佐久間象山や江川太郎左衛門などが南蛮渡来の反射炉をつくり黒船来襲に備える大砲を製造したのでしょう。

現場は「鎌倉ちょっと不思議な物語13回」で紹介した「人面石」を登ったところにあります。

Wednesday, January 03, 2007

霊園のガーデニング

鎌倉ちょっと不思議な物語29回


十二所神社の裏山に登ったついでに鎌倉霊園まで歩いた。

霊園には墓参の人々がちらほら歩いていたが、斎場の傍にガーデニングのサンプルが展示してあった。

お金さえ出せば春夏秋冬季節の様々な花々で墓地を美しく飾ってくれるという。

最近はいたるところでガーデニングがブームだが、まさかここまでやるとはびっくりである。

Tuesday, January 02, 2007

オオウナギが棲む小川

鎌倉ちょっと不思議な物語28回


滑川は鎌倉の動脈だ。

相模湾、東京湾から和賀江嶋を経て鎌倉に陸揚げされた物資は、由比ガ浜から滑川を遡って、この中世都市の中枢部に運ばれた。

そんな交通の要所であった滑川だが、流域にはいまも多くの魚や鳥やカニやホタルなどが生息している。

家の近所のこの地点は、かつて健ちゃんが両手にあまるオオウナギを格闘の末に素手でつかんだ現場だが、いまでもウナギ取り専門の漁師が小町に住んでいるという。

Monday, January 01, 2007

大塔宮の正式参拝

鎌倉ちょっと不思議な物語27回


元旦は家族、親戚一同の皆さんと大塔宮へ正式参拝に行きました。

ここは薪能で全国にその名を知られた神社で、足利尊氏の弟、直義によって非業の死を遂げた後醍醐天皇の皇子、護良親王を慰霊するため、明治になってから建立されました。

家内安全を願う善男善女は、宮司の祝福を受けるとともに、ありがたい一場の説話を拝聴するのですが、ことしのスピーチはまことに酷かった。

教育基本法改定論議云々に始まって司馬遼太郎の本や「葉っぱのフレディ」がいかに素晴らしいかというお話、神社で始めた朝顔市の売り上げ大成功の顛末、さらには神社で販売したお札のお陰で交通事故から助かった奇跡の実例、さらにさらに今後神社で企画されているイベントのお知らせまで、とうとうと宣伝広告パブリシティの乱れ撃ちです。

いくら正式参拝が無料だからといってこんな手前勝手な神社のPRをどうして長々と耳にしなくてはいけないのでしょうか?

年頭の厳粛な気分もふきとんで、正月早々けったくその悪いじつに後味の悪い参拝のひとこまでした。

謹賀新年

本年もよろしく!