照る日曇る日第337回
黄昏迫る平成の御代にあっては、「男のくせに化粧なんて」、と部厚い眉をついついひそめてしまう私ですが、今を去る何十年も若かりし日には自分でヘレンカーチス第2液を美容院から買ってきて会社をずる休みしてパーマをかけたことがありました。
頭は茶髪のナチュラルウエーブで、ベルボトムのパンタロン姿で颯爽と神田鎌倉河岸の汀にあった小さな会社に入っていきましたら、受付嬢が一斉にのけぞって引いていく姿がおぼろに知覚されました。その当時私は、別にオシャレしようと思ったわけではありません。なにやら前途茫洋の憂い深く、ちょいとおのれの身体外観をギタギタにしてやりたかったのに違いないのです。
「男はなぜ化粧をしたがるのか」というタイトルを持つこの本も、私と同様化粧せざるを得なくなった孤独な生の実存の根っこを鋭くえぐってくれるのかと予想していましたら、案に相違してああ堂々の「男性化粧&時代相関説」の開陳でした。
日本史にはわが国に統一国家が誕生した上古、初めて国風文化が成立した平安、武士の時代に転換した中世、戦国を経て幕藩体制が確立した江戸時代、近代国家が成立した明治大正、敗戦と戦後レジームの昭和、という6つのメルクマールがあると唱える著者は、それぞれのエポックにおいて男性の化粧がどのように変遷してきたのかを、1)メークアップ、2)整身(髭そり・脱毛など)、3)整髪の3つの視点から詳細に比較対照しました。
そしてついに化粧は時代のバロメーターであり、歴史は「戦時モード」と「平時モード」を繰り返してきたことを実証するに至るのです。
ここで著者がいう「戦時モード」とは神話時代、中世鎌倉、戦国・江戸初期、明治維新から昭和初期の「常在戦場」の時代であり、「平時モード」とは平安、室町、江戸後期、昭和~現在を指していますが、まあ平たくいえば平和であればマッチョな男らしさが忌避され、猫も杓子も全身化粧に憂き身をやつし、戦争になれば男はよりマッチョになりはてて化粧どころの騒ぎではないということでありましょう。
魏志倭人伝から古事記、万葉、源氏はもとよりルイス・フロイス、森銑三、石井研堂、ドナルド・キーン、杉浦日向子に至るまでまるで打出の小槌のごとく自由自在に博引傍証しながら上記の命題を執拗に証明し続ける著者の研鑚努力と異様なまでの執念に激しく打たれた一冊でした。
♪町内の怪しき者は通報せよとパトカーが喚いている恐るべき警察国家ニッポン 茫洋
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