照る日曇る日第339回
伊藤整の日本文壇史を引き継いで川西版の第1弾が、大正5年12月の「漱石の死」のシーンから始まりました。冒頭の「明治という時代を生きた文豪夏目漱石は、今、死の床についていた」という格調高い1行は、大正の作家たちや昭和文壇の形成、昭和モダンと転向、文士の戦争へと続く全10冊への期待をいやがうえにも高めてくれます。
著者によれば漱石の死の遠因は、彼が20歳の時に患った虫垂炎の治療法の間違いにあるそうで、わずか49歳でこの世を去った偉大な文学者の「夭折」が、今更ながら惜しまれます。この章では師匠の枕辺に集う小宮豊隆などの高弟と、芥川・久米・松岡などの若い弟子たちの周章狼狽ぶりと漱石の長女筆子をめぐる久米と松岡の争奪戦が興味深く描かれます。
漱石の妻鏡子の信頼を集め当初大きくリードしていた久米が、油断大敵伏兵の恋敵松岡の逆転を許してしまうくだりなどは文字通り巻を措くあたわざる面白さです。
もっと面白いのは第3章で紹介される芥川龍之介の不倫の恋です。最晩年の漱石によって後継者に擬せられていた芥川の「月光の女」野々口豊、「愁人」秀しげ子との姦通の現場を、著者はまるでシャーロック・ホームズのように天眼鏡片手に執拗に追跡しています。
芥川よりもっと面白いのは、佐藤春夫と谷崎潤一郎の谷崎の妻千代をめぐる愛の争奪戦です。14歳の時千代の姉初子の娘小林せいを強姦した谷崎は、彼女を自分好みの悪魔的な女ナオミに育て上げ、「痴人の愛」の泥沼に沈みます。千代を離縁してせいと結婚しようとする谷崎は、当時人気絶頂のイケメン俳優岡田時彦(岡田茉莉子の父)の童貞を奪い、谷崎の元を逃れようとします。
苦悩する谷崎にないがしろにされ、VDの憂き目に遭っていた千代を救ったのは、純情詩人佐藤春夫の純愛でした。昭和5年8月18日、幾多の変転を経てついに千代は晴れて谷崎を離縁して佐藤の妻となったのです。万歳!
谷崎よりもっともっと面白いのは、第5章の「北原白秋の姦通罪事件」ですが、残念ながら本日の字数が尽きました。どうぞ書店へ駆けつけて、この世にも奇怪な姦通事件のおどろおどろの大団円を、川西名探偵とともに追跡してください。
ただ白秋が「ソフィー」と呼んだ運命のファム・ファタール松下俊子に一目ぼれしたのは、私が長く勤務していた原宿の会社のすぐ傍であり、かつまた現在岡田茉莉子氏の自宅のすぐ傍、さらに白秋の2度目の不倫相手江口章子が、白秋と別れて流れ着いたのは、私の郷里の街にある郡是製糸の教育係であった、とはまことに不思議なこともあるものです。その章子が、熱烈なキリスト者波多野鶴吉翁が設立した製糸工場の、女工の生活改善のために戦ったとは、本書を読んではじめて知りました。
さて一言にして小説より面白いこの本の感想をつくせば、作家はいちじるしく色を好み、また色に翻弄され尽くすということでしょうか。男の肉は女の肉より薄いのです。
♪哀れまた美女に食われし文士かな 茫洋
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