Friday, April 02, 2010

岡井隆著「注解する者」を読んで

照る日曇る日第335回

「注解する者」と自称する著者は、対象物にいつのまにか寄り添い、書物(おくのほそ道、古事記伝等)や作家・藝術家(ラフカディオ・ハーン、森鴎外、ウイトゲンシュタイン、川村二郎等)や音楽(オネーギンや薔薇の騎士等)や皇族(天皇皇后やヤマトタケルノミコト等)能・歌舞伎(熊野等)などの内部に柔らかな水を注ぎながら侵入してたちどころに溶解し、楽々と自他合一化を果たしながらその内通貫入の喜びの言葉を書き記します。

例えば著者は、芭蕉の「おくのほそ道」を俳諧の一体として読むべしと提唱した安東次男にならってこの名作の注解を開始します。そして新潟の遊女が登場する場面が「おくのほそ道」における「恋の座」であると喝破した著者は、「一家に遊女もねたり萩と月」の一句を呼び出して、ここには遊女と僧形二人の一夜のかかわりがほのかに暗示されており、「それでなくては翌朝涙と共に同行をせがむ二人をにべもなくことわるという一場面の深さはでてきない」「だから無情な仕打ちをした芭蕉は歌枕の故地を訪問しようとした土地の衆にぴしゃりと断られたのだ」とあざやかに溶解してみせてくれるのです。

詩と散文、散文と韻文、散文詩と短詩、詩論と詩想の境界を軽々と突破し、融通無碍に解体してはまた回帰するその自在な詩興は、長く言葉と遊び戯れてきた著者ならではの独創的な表現世界と申せましょう。
和歌から蚕の糸のように絶え間なく繰り出される綾なす言葉のつづれ織は、蝶のように舞い、蜂のように刺したかのモハメド・アリの軽快なフットワーク、あるいは宇治平等院の天女が自在に宙を飛翔しながら地上に降らせる華麗な花々の乱舞を思わせます。

本居宣長の「古事記伝」を注解する箇所も面白い。小碓命が大碓命を厠で殺す有名なシーンがありますが、景行天皇が熊襲を退治したとき、「その背皮を取りて、剣を尻より刺し通したまひき」とあるのを「尻から刺す時背皮をつかむのは合理的ではない。これは衣の背をつかんだのだろう。剣は下腹部に達しただけだから即死ではない」と小児科医らしく分析する本居宣長について同じ内科医師の著者がコメントしています。

さらにまた、かつてはマルクスに親炙した著者が召されて皇居に赴き、晴れがましくも当代一の宮廷歌人として天皇皇后の御前に膝を屈する複雑な心境を吐露しているくだりも苦く心に残ります。

注解者などと韜晦しながら、そこで語られる言葉は純乎とした詩であり、技巧の粋を尽くした現代詩の最高峰を往く。私も数多くの詩を読んできましたが、これほど明晰で透明で高雅な日本語の森の中を散策した経験はかつてなく、またこれからも滅多にあるまいと思わせる見事な完成度を誇る詩文集です。


朝日差す歩道の端に横たわる灰色の猫はびくとも動かず 茫洋

No comments: