照る日曇る日第315回
近世の演劇、能・狂言・歌舞伎を論ずるためには、その淵源をなした中世の演劇の歴史にさかのぼる必要があるということで、本書は慶長3年1598年8月18日の秀吉の死から書き始められています。
信長、秀吉、家康という3人の独裁者は、3人3様に能や風流踊を愛したわけですが、徳川政権が確立するに及んで、能楽は民衆の手から奪われ、官許式楽として奉られて武家の権威と格式の内部空間に囲い込まれて芸術生命を枯渇していきます。また狂言も古典劇化したのに、歌舞伎と浄瑠璃はなぜか世につれて生き延び、「時分の花」を咲かせ続けることに成功しました。ここに江戸演劇の勘所があると著者は強調しています。
出雲のお国が初めて京の都で「歌舞伎踊」を踊ったのは慶長5年7月1日、ここから現在の歌舞伎につながる芸能の歴史が始まりました。
京の女歌舞伎、遊女歌舞伎が各地へ下るなかで、寛永元年1624年には江戸に猿若座ができ、有名な江戸三座をはじめ京、大坂を合わせた「三都の櫓」は、不況や幕府による政治的弾圧(若衆歌舞伎の禁止や小屋取り壊し、所替の強要など)、人形浄瑠璃の隆盛といった外部的要因のみならず、江島生島事件、団十郎刺殺事件のような規律の乱れや芸術的未成熟などの内部要因によって何度も大きく揺らいできました。
しかしそれらの崩壊の危機をそのつど救ったのは、古浄瑠璃以来の伝統の力とライバルである人形浄瑠璃の創造性、そしてその時々の民衆の潜在ニーズを大胆不敵に取り込んだ座主や作者や役者の進取の精神でした。
元禄時代における竹本座の開場と竹田出雲、竹本義太夫、歌舞伎作者近松門左衛門の黄金コンビが歌舞伎に与えた影響はつとに有名ですが、以後宝永、正徳、享保、宝暦と時代が下がるにつれて団十郎、藤十郎、沢之丞、海老蔵、宗十郎、富十郎、菊之丞、幸四郎、歌右衛門などの名優がひきもきらず登場し、近松亡き後の合作者、竹田小出雲、並木宗輔、近松半二、並木正三、千柳などの優れた脚本家、薩摩浄雲、杉山丹後掾、宮古路豊後掾以降の名人音楽家たちの活躍によって、「菅原伝授手習鑑」「義経千本桜」「仮名手本忠臣蔵」などの名作が陸続と登場するのです。
本書の白眉は、疑いもなく江戸という都市と時代と芝居を、「桜花の幻想」というキーワードで鮮やかに関連づけた第六章の「満開の桜の下で」しょう。
それは「仮名手本忠臣蔵」が完成した寛延元年1748年の翌年に吉原に植えられた夜桜見物のにぎわいの描写にはじまるのですが、やがて江戸の市中を埋め尽くした桜花幻想は、舞台の劇場空間をも美しい魔物のように覆い尽くし、ついに「京鹿子娘道成寺」を踊る続ける女形のトップスター富十郎の上にも、はらはらと舞い落ちるのです。
「この格段の美しさは、さながら舞台に咲く桜の花を思わせる美しさである。ほかの多くの花と違って桜は一輪二輪の花ではない。一本の枝に無数に咲く。その枝が集まって一本の樹となり、その樹がさらに集まって桜の林となり、全山桜となり、ついには花の雲になる。この桜の不思議な美しさが「京鹿子」の構成によく似ている」
と著者は述べていますが、この魅力的な歌舞伎踊の本質をじつにうまくとらえていると思います。
♪ひたすらに踊りてやまぬ歌右衛門その手のうえにも桜降りしく 茫洋
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