Saturday, March 03, 2007

ある丹波の老人の話(6)

さて観音さんのお導きで奇跡的に眼病を克服した母でしたが、それから八年ほど経った頃、胆石病で大わずらいをしました。胆石特有の激しい腹痛がたびたび起こって、ひどく苦しみ、からだは見る影もなくやせ衰えてしまいました。

医者の薬も効き目がなく、またしても起こるさしこみに耐える力もありません。気の毒に母はいまや死を待つばかりの有様となってしまったのです。

このときも私は眼病克服を観音さんにお祈りしたんとおんなじように、

「私の命を三年縮めて母を病苦から救い、あと3年の寿命を母に授けてください」

と、今度は母の信仰する生まれ在所の稲荷さんと讃岐の金比羅さんに毎朝頭から三杯の水をかけて祈りに祈りました。

このときの主治医はまだうら若い長沢先生でした。先生は、

「これは手術をして胆のうを切り取ってしまうよりほかに仕方がない。私がやりましょう」

とおっしゃって、おそらくまだ一度も試みたことのない胆のう摘出という大手術を、衰弱し切っている患者に対して敢行し、ものの見事に成功させてしまいました。

こうして母は胆石の病苦をからくも脱して、またしても健康を回復して、四十九歳まで生きることができたんでした。

そしてこの二度の体験、とりわけ12歳の折の体験は、「真心をこめた祈りは必ず神仏に容れられる」という信念を私に植え付けたんでした。

どうやらこれが子供心に強く焼き付けられて後年の信仰の芽生えとなったようです。

私はつねに神仏の存在を認め、これを敬い、これを畏れるようになりました。

のちにキリスト教に入信した私が、はなはだ至らないながら、現在ひたすら神さんを求めて祈りと感謝の明け暮れを送っとれるんは、この少年の日の苦難から萌え出た信仰の小さな芽生えが、雨露の恵みを受けて、枯れたりしぼんだりすることのう育った賜物であります。

旧約聖書ヘブル書第11章1節に「それ信仰は望むところを確信し、見ぬものを真実とするなり」という聖句があります。

古来これこそが信仰の定義といわれておる有名なことばでありますが、私が十二歳のときの体験は、信仰というにはあまりにも幼稚なもんであったとしても、この聖句の一端に触れたもんやと思い、このような機縁を恵んでくださった主と母に深く感謝しております。

(第1話「母の眼病」終)

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