木挽町の歌舞伎座のすぐ近所に、改造社の本社ビルを見つけた。
屋上の少建築物を含めると5階建ての鉄筋コンクリート造りで昭和通に面して由緒ありげに立っている。とりわけ窓枠のリリーフの仕上げが美しい。
この近辺は歌舞伎座をはじめ米軍の空襲でほとんど焼失したが、奇跡的に往時の面影を残しているのである。また、ほんらいは右側の菓子屋「銀座日の出」も改造社が使用していたものと思われる。
改造社書店といえば雑誌「改造」で余りにも有名である。以下面倒くさいのでウイキペディアの記述を大幅に引用しよう。
「改造」は社会主義的な評論を多く掲げた大正、昭和にかけての代表的総合誌で1919年(大正8年)に山本実彦の改造社から刊行された。小説なども掲載していたが、労働問題、社会問題の記事で売れ行きを伸ばした。
当時はロシア革命が起こり、日本の知識人も社会問題や社会主義的な思想に関心を寄せるようになった時期であり、キリスト教社会主義者の賀川豊彦、マルクス主義者の河上肇、山川均などの論文を掲載して、好評を博した。(ちなみに「死線を越えて」の社会思想実践家、賀川豊彦氏は、私が少年の頃我が家を何回か来訪され、その大宅壮一に似た風貌をいまもありありと思い出すことができる。)
また「改造」は、小説では志賀直哉「暗夜行路」を連載した。先行する総合雑誌として『中央公論』があったが、より急進的な『改造』に押されるほどになったのである。
改造社の山本社長は、1922年にかのアインシュタインを日本に招聘、さらに1926年には『現代日本文学全集』を1冊1円で発売し、いわゆる「円本ブーム」を巻き起こし、1929年、岩波文庫に対抗して改造文庫を発刊するなどまさに昭和出版界の風雲児の名をほしいままにしたのであった。
しかし第二次世界大戦中の1942年、掲載した論文が共産主義的であるとして弾圧を受け(横浜事件)、1944年に廃刊となる。(この横浜事件は現在も最高裁での再審と無実宣言を遺族が請求中)
「改造」は終戦後の1946年に復刊するが、その経営は思わしくなく、労働争議のすえ、ついに1955年に廃刊となった。
しかしその本拠地は、依然として平成の御世に赫赫として現存している。
ただし現在の建物の所有者は山本家とは無関係。いまは単なる書籍販売業を営み、1階は小売、上層部は書籍販売営業に使われているそうだ。
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