鎌倉ちょっと不思議な物語47回
これからしばらく、鎌倉のなかの中原中也の足跡を辿ってみようと思う。
思へば遠く来たもんだ
十二の冬のあの夕べ
港の空に鳴り響いた
汽笛の湯気は今いづこ 「頑是ない歌」
汚れっちまった悲しみに
今日も小雪の降りかかる
汚れっちまった悲しみに
今日も風さへ吹きすぎる「汚れっちまった悲しみに…」
昭和12年(1937年)は中也最後の年であるが、この年は盧溝橋事件で日中戦争が始まった年でもある。
私はわずか30歳で亡くなった中也の不幸を思うが、彼にとって唯一のさいわいは、これに続く太平洋戦争の災厄を知らずに死んだことであろう。
昭和8年12月に結婚した中也は、四谷の花園アパートに居を構え、翌年長男文也が誕生し年末に「山羊の歌」が刊行された。
昭和10年から11年にかけて中也は当時小林秀雄が編集長を務めていた文学界や暦程、四季、をはじめほとんどの文芸誌、詩誌に数多くの作品を発表する。中也の短い生涯のもっとも輝ける年である。
しかし11年の11月に文也が病没し次男愛雅が誕生すると神経衰弱が昂じ、千葉市の中村古峡療養所に入所する。
翌12年の2月にここを無断で退院した中也は、友人の関口隆克と一緒に鎌倉の家を探す。文也の思い出のある場所に住むことに耐えられず古くからの友人の多いこの町に住もうと思ったのである。
関口の証言によると、中也は月のある夜に窓から空を見ていると、屋根の上に白蛇が横たわっていて、それが子供を殺したというので屋根に出てその蛇を踏み殺そうとしたという。
そして中也は2月27日に鎌倉の寿福寺境内に転居し、その同じ2月に「また来ん春……」を、4月に絶唱「冬の長門峡」、5月に「春日狂想」を発表するのである。
私はこれらの作品を口づさむと、どうしてもモーツアルトの晩年の歌曲「春へのあこがれ」と最後のピアノ協奏曲の、あのうらがなしいメロディーを思わないわけにはいかない。
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