Thursday, November 22, 2012

川西政明著「新・日本文壇史第9巻」を読んで




照る日曇る日第550

本巻に収められたのは吉川英治、山本周五郎、大佛次郎、井上靖、吉村昭、司馬遼太郎、壇一雄、江戸川乱歩、松本清張、佐木隆三の面々で、著者はこれら「大衆文学の巨匠たち」の人生、代表的な作品が誕生するにいたった来歴を豊富な資料を駆使しながら、もはや自家薬籠中のものとなった自在な語り口で月旦するのである。

いちばん面白かったのは、吉川英治と直木三十五の間で昭和七年に交わされた「宮本武蔵論争」秘話である。著者によると、英治は武蔵が生涯六十三度の真剣勝負で一度も負けなかったから日本一の剣客である、と唱えたのに対して、三十五は柳生宗厳を「その弟子に破らせた」上泉信綱などの方が格上であると主張した。

三十五は、「武蔵は信綱、宗厳をはじめ当時の超一流の名人とは誰ひとり試合をしていない。もし試合の数だけなら塚原ト伝、松本備前守政信、波合備前守胤成に遥かに及ばないと数字を挙げて具体的に反論するとともに武蔵の人間性を問題にした。

確かに武蔵は小次郎を破り吉岡清十郎兄弟を斬ったが、その遺恨試合では幼少の又七郎を殺している。武蔵に弟子無く禄高は異常に低い。もっと問題なのは武蔵が著した「五輪書」である。そこには「われ十三歳にして初めて勝負を為して新当流の有馬喜兵衛という兵法者に勝ち、二十一歳にして都に上り、その後国々所々に至り、諸流の兵法者に行逢い、六十余度までも勝負すと雖も一度もその利を失はず」などと自慢そうに述べてあるが、これらは他人の筆で書かれるべき文章ではないだろうかというのである。

ここにおいて自らの不明を深く恥じた英治は、ただちに三十五への反論を取り止めて自分の中の武蔵像を確立しようと固く心に誓った。爾来幾星霜、研鑽努力の末についに誕生したのが彼の代表作「宮本武蔵」であったが、その生みの親である直木三十五は、連載が始まる前年の昭和九年二月二十四日にニッコリ笑って亡くなっていたという。


タヒチの女性は髪に花を飾ってる恋人がいる人は左いない人は右側に 蝶人

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