闇にまぎれてbowyow cine-archives vol.344
本邦における中学生のいじめと、この映画におけるフランス人中学生のユダヤ人同級生いじめとどこが、どう違うのだろう。
人種、宗教、顔容、文化、生活様式……、原因が異なっていたとしても「異端」として措定された存在に対するいじめの構造はまったく同じで、本作で登場する白哲のユダヤ少年は、いちおうの親友である主人公からさえもいじめの対象になるのだった。
いじめようと思えばいじめられるし、同胞の側に立とうと思えば立てるわずかなあわいを遅疑逡巡、戦々恐々と私たちは生き延びてきたし、現にそうしている。ちょっとした契機でどちらに転ぶか、その契機をとりまく諸要素を押さえよ。
本作では、頑なな正義と主義主張を貫く校長に馘首された少年の密告が、宗教共同体でかくまっていたユダヤ人生徒と校長自身をゲシュタポの手に引き渡す導火線になっていく道行がいかにも悲劇的であり、運命の皮肉でもある。
そういう紋切り型の評言よりも恐らく監督は自らの余りにも切実な個人的な体験をおおやけのものにしたかったのであろう。
高野山一日二食の聖かな 蝶人
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