闇にまぎれてbowyow cine-archives vol.351
1960年代後半、文化大革命時代に毛沢東が断行した「下放」政策によって都市の若者が中国の僻地へ送り込まれた。この映画の主人公は教育経験のない田舎の若者だが、人里離れた山の上の中学校の国語教師に任命され、突如教壇に立つことになる。
などという背景はどうでもよろしいが、陳凱歌の映画では人物や事件や風物自体も美しくきっかりと描かれていて感銘を受けるのだが、正確にいうと彼が描こうとしているのは、人物や事件や風物自体ではなく、それらのアトモスフェールやたたずまいであり、そのたたずまいを成立させている静かな時の流れであると感じられる。彼は映画的事件ではなく、そのフレームの外を流れる静謐な時間そのものを直視しているのである。
しかしこの映画は時の政治権力とは無縁な教育の理想的なあり方を追及する実験映画でもあり、専門教育の手あかにまみれた手法に無縁の素人の若者が、教科書を捨て、カリキュラムを捨て、辞書を捨て、即興的な試行錯誤を繰り返しながら、自発的に学ぶことの楽しさを徒手空拳で見出していくプロセスは感動的ですらある。
中国であろうが日本であろうが、恐らくこのような地道な手作りの全人教育だけが本当の児童教育なのであり、それはかのジュリアン橋下ソレル市長などが大阪で取り組んでいる岡っ引き教育の対極に位置するものなのだろう。
二読三読四読まだ意味不明この新古今調のコンチキチン 蝶人
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