Saturday, November 24, 2012

鎌倉大御堂ヶ谷「勝長寿院跡」を訪ねて



茫洋物見遊山記第96 鎌倉ちょっと不思議な物語第266

大御堂ヶ谷の奥にあった勝長寿院は、源頼朝が父義朝を供養するために建てた寺院で、往時の鎌倉では、八幡宮司と永福寺、大慈寺に並ぶ重要な聖地であった。頼朝はみずからこの地に何度も足を運んで墓所や堂舎の配置などの陣頭指揮にあたった。

文治元年1185年8月の末には父義朝の頸が鎌倉に着き、頼朝は稲瀬川まで迎えに出た。勝長寿院が創建されたのは同年10月24日で、小春日和のその日の午前10時、頼朝は多くの兵を従えて束帯姿で大倉御所を出て歩いてこの大御堂に向かい堂供養を主宰したのである。

その後勝長寿院には多くの僧が法要を営み、法華堂、新御堂、御所などの新たな堂宇が建立され、源氏の菩提寺として頼朝はもちろん政子、大姫、頼家、実朝などが盛んに参詣した。

承久元年1219年正月27日、甥の公暁に暗殺された3代将軍の実朝は、その死後に火葬されてこの地に彼の母政子とともに眠っていたのだが、その後時代が下って鎌倉が寂れるに従って勝長寿院に関する記述も途切れ、現在では伊豆石の礎石と小さな五輪塔と記念碑をいまに伝えるのみとなった。五輪塔は頼朝と鎌田正清の墓と伝えられているが、一書には宝戒寺から運んできたとあり、当地の伝承では住宅建設の際にたまたま掘りだされたものであるという。

いずれにしてももう少し真面目に史跡保存の手を尽くしておけば大慈寺ともども現況のようなつまらない住宅地に埋もれてしまうことはなかったであろうと悔やまれてならない。

なお実朝の「金槐和歌集」には勝長寿院を詠んだ歌が四首残っているが、ある年の旧暦三月の末に訪れたときの二首を紹介しておこう。

行きて見むと思ひし程に散りにけりあなやの花や風たたぬまに
さくら花さくと見しまに散りにけり夢かうつつかはるの山風

まるで現代に生きる人がきのう詠んだ歌のようではないか!

*参考 貫達人・川副武胤著「鎌倉廃寺事典」(昭和五五年有隣堂刊)


残菊や凡人小事のうれしさよ 蝶人

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