Thursday, November 01, 2012

スタンリー・ドーネン監督の「パリの恋人」を見て



闇にまぎれてbowyow cine-archives vol.336ふぁっちょん幻論72&勝手に建築観光51

トップシーンからして不愉快で鼻もちならない映画だ。「ピンクで統一するのよ」と突如思いつくヴォーグ風編集長(実際にこういうアホ馬鹿人間は20年前にも大勢いた)やNYの古書店に事前の許諾なく撮影に押し掛けるアベドン風カメラマンの横暴さに、1957年当時のふぁっちょん業界の肩で風切る偉そうなポジショニングが示されているが、ふぁっちょんが時代の先頭から脱落して後塵を拝するようになるとともに、こういう傍若無人な振る舞いが姿を消したのは同慶に耐えない。

この映画では目にも綾なジバンシーの所謂トップファッション!が続々と登場するが、平成の御代にひそと棲息する我等の目には、それらの華麗な衣装の輪郭があまりにも際立ち、色彩が強烈であることに違和感が先に立つので、これらが名匠による歴史的名品であることを忘れてしまいそうになる。いわば異様な服がまっとうな人間らしさを圧倒して、過剰に自己を主張しているのだ。

完璧なヘアメイクと共に変身したヘプバーンの艶姿よりも、彼女が冒頭の古書店で来ていたシンプルな黒のデイウエアのほうがよほど美しくファニーフェイスの彼女に似合っていることに、当時は誰ひとり気付かなかったのである。

「パリの恋人」以来半世紀が経過し、数多くのデザイナーが数多くの特色を秘めた数多くの服飾の作品を製作し、それはいまなおパリやミラノや東京のコレクションで発表されつづけているが、それらの大半は依然としてこの映画のジバンシーのような「服じゃ服じゃ」という人間無視の異様な服の開発にいそしんでいるのは恐るべきことであり嘆かわしいことでもある。

近代の洋服は人間の美や機能に奉仕しようと闡明しながら、結局は人間の個性を覆い尽くす結果に終わった。あくまでも服が主で人が従であった。これに反して現代の優れた洋服は服の主張を放棄して、あくまでも人間の自己主張に異なって奉仕しようとする。人間の自由のためには、服は服としての主張を控え、おのれを溶かし、その姿を消そうとさえすべきなのだ。

「露わな服から、溶ける服、消える服へ」「地上樹ふあっちょんから地下茎ふあっちょんへ」というこの考え方は、最近の建築にも共通している。電通の汐留ビルを設計したジャン・ヌーヴェルのコンセプトは「見えない建築」であるし、実際に2012年のベネチア国際建築展では触れれば崩れる脆い建築がグランプリを獲得したように、平成末期のふあっちょんもそのように「自己否定的に自己の存在意義を訴える」ようなスタイルに急速に変遷していくだろう。

そしてこの「全く目立たないようにして目立つ」という常識をふあっちょんの退化や腐敗堕落と受け止めて反発したり、パリコレや東コレなぞで妙にぐあんばってしまう「反動的な」クリエーターやデザイナーたちは、石原や橋下虚妄政治と同様、時代の挟雑物として大衆から早々に忘却されてゆくのであるんであるんであるん。


季語の無き俳句を憎む俳諧師 蝶人

No comments: