Wednesday, November 14, 2012

渡部直己著「日本小説技術史」を読んで




照る日曇る日第548

題名の面白さに惹かれて一読してはみたものの、わたくしの生まれながらの脳力の弱さも手伝って本邦の小説の歴史をその構成技術をつうじて論じるという前人未踏、空前の快挙の詳細のほんの断片すらも理会することが出来なかったのはまことに残念無念、痛恨の極みでありました。

小説は膨大な言葉から形づくられているが、確かに著者がボルヘスにならっていうように、その創作の手法の定型や技巧をテーマに歴史的に研究されたことは、わたくしの知る限りでは島田雅彦の「小説作法ABC」を除いてあまりなかったような気がします。

本書では馬琴から逍遥、紅葉、亭四迷、鴎外、一葉、独歩、藤村、花袋、泡鳴、漱石、秋声、龍之介、利一、翠などの作家の諸作品が、著者の学を誇示するように縦横無尽に引用され、彼らの小説技術が高踏的に論じられるのですが、冒頭に述べたようなお恥ずかしい理由で、わたくしにはその「高尚なる理屈」がいくら読んでもてんで腑に落ちませんでした。橋本治氏が説くように日本の小説の源流は江戸時代の人形浄瑠璃にあるにもかかわらず、これを無視して馬琴から開始する手法も納得できません。

このように本書の前半は、暗愚なわたくしには取りつく島もない難解な原理論の連続だったのですが、後半から末尾にかけては著者が高踏的な小説技術論をどこかへうっちゃって、漱石が「トリストラム・シャンディ」の影響を深く受けたとか、尾崎翠の「第七官界彷徨」がどうしたこうした、とかの単なる文芸ひよーろん風のお話が続くので、それなりに面白く読めたのでした。

著者の、日頃のお勉強の成果をこの時とばかりに披露したいという青臭い思いや、衒学趣味が嵩じて超難解な用字用語を教壇の高みから下々に呉れてやりたいというエリート意識も分からないではありませんが、もしもおのれが説こうとする思想や内容にいささかでも自信があれば、この本は小西甚一の「日本文藝史」やドナルド・キーンの「日本文学史」のように、もっともっと分かりやすい日本語で書くことができたはず。今は亡き井上ひさしがいみじくも言い遺したように、「難しいことは分かりやすく」書くのが書き手の作法というものではないでしょうか。


自分にもよくは判らぬことだから超難解の言辞を一発 蝶人

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