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Sunday, December 23, 2012

鎌倉小町通りの鏑木清方記念美術館で「正月の風情展」を見る




茫洋物見遊山記第98回 &鎌倉ちょっと不思議な物語第269回

全国の闘う学友諸君、そしてルンペン・プロレタリアートのみなさん、メリーⅩマス! いよいよ押し詰まって参りましたね。

今年は長年お世話になって来たクライアントからの発注が突然止まり、ヒジョウキンの口がひとつ減り、義母をはじめとして多くの人々が亡くなり、私が蛇蠍の如く忌み嫌っている政党とその一派どもが政権を奪取するなど、内外ともに気色の悪いことが積み重なりました。それらの影響はこれからジワジワと出てくると思いますが、それもこれも身から出た錆といふことなれば、この衰え行く痩身ぜんたいで受け止めて行かねばらなんと覚悟しておる今日この頃です。

さて家に閉じこもってばかりいては心身共にろくなことはないので、わたくしは中原中也が死んだ病院で検診を受けた帰りに、久しぶりに駅から朝の小町通りをぶらぶら鏑木清方記念美術館まで歩きました。普段は無数の観光客であふれかえっている小町通りですが、ここはいつ行ってもほとんど人がなく、かつてまさにこの地この場所に日本画家鏑木清方が居住した頃とそれほど変わらない落ち着いた雰囲気が保たれていることに驚かされます。

会場に入って見ると右側の壁面に上下に並べられている清方の羽子板の原画と永井周山手造りの押絵羽子板の展示がたとえようもなくあでやかです。周山は清方のオリジナルを忠実に踏襲しながらも、場合によっては人物を減らしたり向きを変えたりしながら在りし日の「明治風俗12カ月」を見事に再現していました。

清方という人は単彩のスケッチも精妙そのもので江戸の昔を再現していますが、ひとたび色筆を取ればまことに華麗な色彩世界に遊ぶ、さながら江戸のアンリ・ルソーのような自由さ自在さを併せ待っていて、それはたとえば今回展示されている「初雁の御歌」の青や緑や朱色の饗宴に現れています。

展示作品こそ少ないものの、ここにはつねに明治、大正、昭和の初期を通じて流れていた江戸の情緒がほのかに息づいているのです。東京からの資本や商材で賑わう虚栄の市の愚かなさんざめきに飽きたら、横丁を左に曲がって観光客が一人もいないこの小さな美術館へどうぞ。

なお同館の「正月の風情展」は来年1月20日まで。ただし年始年末12月29~1月3日までは休館。詳しくはホームページ参照のこと。

清方は日本のアンリ・ルソーいつも江戸の春に遊んでるよ 蝶人

Thursday, November 29, 2012

西暦2012年霜月蝶人狂歌三昧




ある晴れた日に 第118回


残菊や凡人小事のうれしさよ

圧殺の森の下生え紅き色

ザクザクと団栗踏んで山登る

秋の蚊を柔らかく叩いて殺す午後

父母すべて喪いし二人の秋の旅

高野山一日二食の聖かな

季語の無き俳句を憎む俳諧師

凩や行方不明者がまた一人

「いいね!」とは誰も言わぬ日十三夜

東西に老若二人のナポレオン

馬鹿殿は中国と戦争したがっている

馬鹿殿よ血迷うなかれ枯れ薄

秋深し伸びたる爪の不気味さよ

玉虫も死に絶えたりな里の秋

十三夜今年も馬齢重ねたり

木枯しや被災地からの犬吠えず

柿全部鳥に喰わせるお大尽

米櫃に穀象虫探す秋の夜 

蟷螂は鼓腹撃壌発条出せり

セブンイレブン中国と戦争しているやな気分

死してまた蘇りつつ世直しを未来永劫続ける洒落者

にしてもさっさと民社党を見限りシンクタンクに転職するという神奈川4区長島一由

にしても轢き殺されて地べたに横たわっている蟷螂はわたくしのようだ

亡くなりし義母の携帯解約できず机の上にまだ置いてある

新しきアクアのブルーを買わんとしたがシルバーを経てホワイトとなりぬ

列島の超高層ビルをことごとく平屋に畳めば愉快なるべし

革命の美名の下に屠られし草莽の民何処へ消えしか
 
自分にもよくは判らぬことだから超難解の言辞を一発

いたずらに愛国を呼号する莫れその君こそが国を滅ぼしている

国家より大事なものは個人のしあわせ君「愛国無罪」を叫ぶなかれ

二読三読四読まだ意味不明この新古今調のコンチキチン

野田橋下安倍石破慎太郎どいつもこいつも消えて無くなれ

尖閣や竹島よりも東北の喪失国土をとく回復せよ

権力を我がものにせんとつるみあう我利我利亡者に災いあれ

いつの間にか中国と戦争してもいいような気になる自分が怖い

ミラノ・コレに昔の名前で出ています「ジル・サンダー」byジル・サンダー

ジャガイモにするかタマネギにするか迷うも楽し百円野菜

左側にハンドルを切り高速を墜ちゆくときの軽き眩暈

タヒチの女性は髪に花を飾ってる恋人がいる人は左にいない人は右側に

豚の如く醜く肥りし人たちが現れ出る度テレビ消すなり

純白のヨットのように走り去る4173湘南ナンバー

小泉翁逝き吉田翁去り鎌倉は死者が棲む街

水撒けば末後の水求めてカラスアゲハ来る

練炭で三人自殺したアパートをライトブルーに塗ってるペンキ屋さん

ヒッチの如く画面の世界の一点景となりて人世を生きたし


♪新説亜細亜版桃太郎音頭

一、桃太郎さん 桃太郎さん
海に浮かんだ尖閣竹島
全部わたしに くださいな 

二、やりましょう やりましょう
 これから北の征伐に
 ついて行くなら あげましょう 

三、行きましょう 行きましょう
 あなたについて どこまでも
 仲間になって 行きましょう 

四、そりゃ進め そりゃ進め
 一度に攻めて攻めやぶり
 つぶしてしまえ 北の熊

五、おもしろい おもしろい
 のこらず四島攻めふせて
 分捕物を えんやらや 

六、万々歳 万々歳
 お伴の犬や猿雉子は
勇んで車を えんやらや

七、桃太郎さん 桃太郎さん
これであらかた片付いた
今度は東を攻めましょう

目の前の石ころを蹴飛ばすわれにブランキストの心ありや 蝶人

Saturday, November 24, 2012

鎌倉大御堂ヶ谷「勝長寿院跡」を訪ねて



茫洋物見遊山記第96回 & 鎌倉ちょっと不思議な物語第266回

大御堂ヶ谷の奥にあった勝長寿院は、源頼朝が父義朝を供養するために建てた寺院で、往時の鎌倉では、八幡宮司と永福寺、大慈寺に並ぶ重要な聖地であった。頼朝はみずからこの地に何度も足を運んで墓所や堂舎の配置などの陣頭指揮にあたった。

文治元年1185年8月の末には父義朝の頸が鎌倉に着き、頼朝は稲瀬川まで迎えに出た。勝長寿院が創建されたのは同年10月24日で、小春日和のその日の午前10時、頼朝は多くの兵を従えて束帯姿で大倉御所を出て歩いてこの大御堂に向かい堂供養を主宰したのである。

その後勝長寿院には多くの僧が法要を営み、法華堂、新御堂、御所などの新たな堂宇が建立され、源氏の菩提寺として頼朝はもちろん政子、大姫、頼家、実朝などが盛んに参詣した。

承久元年1219年正月27日、甥の公暁に暗殺された3代将軍の実朝は、その死後に火葬されてこの地に彼の母政子とともに眠っていたのだが、その後時代が下って鎌倉が寂れるに従って勝長寿院に関する記述も途切れ、現在では伊豆石の礎石と小さな五輪塔と記念碑をいまに伝えるのみとなった。五輪塔は頼朝と鎌田正清の墓と伝えられているが、一書には宝戒寺から運んできたとあり、当地の伝承では住宅建設の際にたまたま掘りだされたものであるという。

いずれにしてももう少し真面目に史跡保存の手を尽くしておけば大慈寺ともども現況のようなつまらない住宅地に埋もれてしまうことはなかったであろうと悔やまれてならない。

なお実朝の「金槐和歌集」には勝長寿院を詠んだ歌が四首残っているが、ある年の旧暦三月の末に訪れたときの二首を紹介しておこう。

行きて見むと思ひし程に散りにけりあなやの花や風たたぬまに
さくら花さくと見しまに散りにけり夢かうつつかはるの山風

まるで現代に生きる人がきのう詠んだ歌のようではないか!

*参考 貫達人・川副武胤著「鎌倉廃寺事典」(昭和五五年有隣堂刊)


残菊や凡人小事のうれしさよ 蝶人