照る日曇る日第515回
1983年から84年まで朝日新聞に連載されて読み、選書版で再読した覚えがあるが、3度読んでも汲めど尽きせぬ文芸と人世の叡智の泉を満々と湛えているのがこの1冊である。
文句なしに素晴らしいのは本書の斬新な問題意識で、838年の円仁にはじまり1854年の川路聖謨に終わる千有余年に記された日記を総覧し、百代の時は移れど未来永劫変わることなき日本人の密やかな心奥の声を聴き取ろうとする気宇壮大な研究手法は、まことに豊かな見事な収穫をもたらしている。
本来ならわが国の学界の泰斗がやるべき壮大な事業をやりおおせたのがなんと碧い目の一学徒であると知ったわたしたちの衝撃は大きかったが、大戦中に本邦の兵士の郷里への手紙に接し続けた著者にとって、それは運命的なライフワークでもあった。
さて内容であるが、円仁の「入唐求法巡礼行記」から紀貫之の「土佐日記」、「蜻蛉日記」「紫式部日記」と続く平安時代、そして「建礼門院右京大夫集」に始まる鎌倉時代には、これまでに読んだこともある女流作家の日記なども散見されて、それらの梗概を読むだけでも興味深い。
しかし平安時代の掉尾を飾る日野名子の名編「竹むきが記」以降、およそ2世紀にわたって女性による日記が1冊も残っていないのはどうしてだろう? 南北朝の戦乱を経て室町時代に入っても足利義詮や宗祇、正徹、一条兼良などを除いてめぼしい日記は書かれていないが、これは応仁の乱による大乱大混乱の影響もあるのだろうか。
「伊勢物語九」に出てくる三河の八橋と杜若の挿話は尾形光琳の屏風絵でも有名であるが、1567年に当地を訪れた紹巴の「富士見道記」によると諸国の旅人が八橋の橋柱を全部引っこ抜いて名所旧跡の欠片も無かったという。
著者もいうように、日本人の天然自然と人世観に対する近代的個我が目覚めて自在闊達な表現を繰り広げるようになるのはやはり近世には突入してからで、江戸時代のみならず全ての時期を通じて最高の芸術的達成として光り輝いているのが松尾芭蕉の「おくのほそ道」であることは当然至極だが、長崎の出島を旅した司馬江漢が行きがけの駄賃に鯨船に乗って鯨捕りに参加した話や、息子の嫁の献身のお陰で「南総里見八犬伝」を完成させることができたと呟いている「馬琴日記」、そして私が最も尊敬する幕末の政治家と私が最も愛するロシアの作家ゴンチャロフとの歴史的な遭遇を素描した川路聖謨の「下田日記」も深々と心に沁み込む佳編で、これらの感動的な叙述の中に、このたび晴れて本邦に帰化された著者の日本及び日本人への尽きせぬ慈愛を感じ取る向きも多いだろう。
なお藤原定家の「明月記」には、彼が19歳の年(治承4年)に書かれた「世上乱逆追討耳に満つと雖も、之を注せず、紅旗征戎吾が事にあらず」という白居易を踏まえた有名な文章が出てくる。これを私は、若き定家の「幕末福沢諭吉風非政治的アカデミー宣言!」と解釈して粋がっていたのだが、とんでもない。
著者によれば、実は彼が実際にこのくだりを書いたのは、後鳥羽院が北条家の転覆を謀った承久の乱の後である。また紅旗は「天皇」、征戎は「征夷大将軍」を意味しており、定家は「そのいずれにも靡かなかった」と告白しているというのである。
「1人の青年が自己の将来に関して選んだ態度の表明というよりは、一人の老人が表明した己の人生評価だったのである」という碧い目の著者の解説を読んで、私の金環日食の残像が残る目から幾枚かの鱗が落ちたのだが、これこそが本当の学者の研究というものだろう。
通史の書けない歴史家は蛸壺の中の蛸だ 蝶人
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