茫洋物見遊山記第97回 & 鎌倉ちょっと不思議な物語第267回
文覚上人(1139-1203)の鎌倉の屋敷跡は、滑川に面した勝長寿院(大御堂)の入り口にあった。
彼は平安末期から鎌倉時代初期の真言宗の僧で、元は遠藤盛遠という俗名の北面の武士だった。芥川龍之介の「袈裟と盛遠」に登場するのがこの遠藤盛遠で、彼は渡左衛門尉の美貌の妻に横恋慕して誤ってわが手で殺めてしまい、仏門に入って熊野で苦行したという。
後に高雄山神護寺を再興し東寺の大修理を主導したほか、源頼朝の挙兵を助け、幕府創設後その帰依を受けたが、頼朝の没後は佐渡・対馬に流罪となった
全盛時代の文覚上人は頼朝に対して影響力があり、平家直系の最後の子孫、平維盛の子、高清、通称六代御前の助命を嘆願して認められ、彼を神護寺に匿っていたが、上人が事件に巻き込まれて佐渡に流されている間に、六代は逗子の田越川の傍で処刑されてしまった。六代御前の墓は、キマグレンというポップグループのメンバーが通っていた逗子スポーツクラブのすぐ近所に実在するが、ここが平家一族の終の住処となった。
一方平家と覇権を争った源氏の一族の最後の地といえば三大将軍実朝の墓地ということになるが、「吾妻鏡」によればそれは文覚上人屋敷跡からほど近い勝長寿院(一説では寿福寺)にあった。実朝と六代の墓の距離は車なら一〇分もかからないので思いのほか近い場所に武士社会を創始した源平二つの部族の末裔が眠っていることになる。
寿福寺は、昔源頼朝の父義朝が住んでいた跡に政子が実朝の師であった栄西を迎えて創建された臨済宗の名刹で、ここにも実朝と政子の墓があるが、形式的なもので実際に骨はないだろう。しかし私はこのお寺を訪れる度に、これらの歴史上の人物が歩んだ苔むした敷石の上を、この境内の借家に住んでいた晩年の詩人中原中也がふらふらと歩いていた姿を思わずにはいられないのである。
ああ亡羊茫洋すべての人は通り過ぎて行く 蝶人
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