♪音楽千夜一夜第69回
私は花鳥風月にだけは恵まれた田舎で育ちましたが、音楽的な体験はほとんどありませんでした。家にあったヤマハの古いオルガンで賛美歌を自己流ででたらめに弾くくらいが関の山で、家でクラシックのレコードを聴いたことなど一度もありませんでした。
ところが私が小学5年生だったころ、大本教の本山のすぐそばにあった体育館に全生徒が集められ、校長先生が「今日はアメリカからやって来られた歌手の方がみんなに歌を聴かせてくださるから、静粛にして聴くように」という前触れがあり、うらわかい、おそらくは20代のソプラノの歌手が年長の女性ピアニストとともに登壇しました。
そこで彼女が歌ったシューベルトやモーツアルトやブラームスのリートが、思えば私の音楽体験のはじまりでした。「野ばら」の愛らしさや「魔王」の恐ろしさ、「菩提樹」の旅情、とりわけコンサートの最後に歌われたブラームスの「子守唄」の、あの母胎に回帰していくような優しい旋律は、歌い終えた彼女の美しい面立ちとともにあれから幾星霜を閲した今日もありありと瞼の裏に残っています。
それからしばらくして、「サウンド・オブ・ミュージック」と同じ題材を扱った1956年製作のウォルフガング・リーベンアイナー監督のドイツ映画「菩提樹」の最後のシーンで、ナチスを逃れて無事にニューヨークでのコンサートを成功させたマリア(美貌のルート・ロイヴェリック)がこの素敵な曲を美しい声で歌っていました。(同じロイヴェリックが主演した「朝な夕なに」も、トランペットが活躍した主題歌とともに忘れがたい映画でした。)
これはおそらくルチア・ポップの吹き替えではないかと想像しているのですが、歌い終わったルート・ロイヴェリックが、まるで聖母のように微笑みながらドイツ語で「おやすみなさい」と観客(わたし)に囁いて、ザルツブルグからの逃避行が「めでたし、めでたし」で終わる無量の浄福感は、私の心に長く揺曳したものです。
それからまた長い年月が経って、この6月、私はドイツ・グラモフォンが特別限定版で発売した46枚組の全作品全集を8457円で購入し、またしても1曲1曲なめるように聴いていたある日のこと、久しぶりにこの曲に出会いました。
作品49「5つの歌曲」の4番目のこの曲を、女声ではなく、なんとバリトンのフィッシャー・ディスカウがしめやかな声で歌っています。
といううことで、どちらさまもここらでgut' Nacht
♪雨の中女が歩きながら本を読んでいる 茫洋
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