Sunday, November 02, 2008

水本邦彦著「徳川の国家デザイン」を読んで

照る日曇る日第183回&ふあっちょん幻論第23回 

徳川時代の日本は、中国などの海外から生糸、絹織物、砂糖などを輸入し、その見返りとして銀、銅、俵物などを輸出していた。「俵物」とは初めて聞く言葉だが、岩波の広辞苑を引くと、なんと煎り海鼠、乾し鮑の2品のことで、のちに鱶鰭が加わった、とある。

いずれも海産物であるから、これらを本邦の海民たちが俵に包んで港から搬出したのだろうが、当時の代表的な輸出商品が珍奇な海の幸であったことに意外の感を受けた。ナマコもアワビもフカヒレも日本というよりは中国、東南アジアの特産物かと思っていたが、当時はそれらの国では収穫する海人や技術がなかったのであろうか。

かのマルコ・ポーロが「黄金の島」と紹介した我が国では、黄金はともかく大量の銀、そして銀の産出が尽きてからは銅を海外に放出していたようだ。本書によれば、17世紀の全世界の銀産出量年間60万キログラムのうち日本銀は最盛期にはその3割から4割を輸出していたというからあきれてしまう。きっと明治の不平等条約のひな型のようにポルトガル、オランダ、中国などの諸外国から大いにぼられていたに違いない。

しかし石見銀山などからの貴金属大出血放出の見返りとして我が国にもたらされたものは、膨大な中国製生糸であった。16世紀後半の生糸輸入量は、年間六万から十五万キロ、1930年代には18万から24万に達し、我が国のアパレル業者たちはこれらすべてを原料にして、せっせせっせとおよそ13万から18万着の絢爛豪華な絹織物に変身させたのだという。(同書第6章P287~289)

15世紀末ごろから栽培が始まった木綿が、麻布に代わって庶民の日常着の主役に変わり、今度は最高級の絹の着物が陸続と登場すると、ホップ、ステップ、ジャンプ、男も女も少女も娘も、50歳を越した人妻も狂ったように絹の薄衣を身にまとったのだった。ああ、なんと贅沢の素敵なことよ!

絢爛豪華な桃山文化も、後水尾院を中心に花開いた寛永文化も、地中奥深くから最貧労働者共が血まみれになって掘り出した貴重な鉱物資源と引き換えにもたらされた、と著者は言いたげである。その後歴史は何度となく繰り返されたが、織豊政権の昔から、わが国の得意技はバブリーな蕩尽だったのである。


♪さあ働け、働けば天国の門は開かれると誰かがささやいている 茫洋

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