鎌倉ちょっと不思議な物語第156回
玉縄城は戦国時代の典型的な山城で、「当国無双の名城」として知られていたが、現在は学校や住宅の造成で昔日の面影はほとんど失われている。
この城の築城と戦歴は以下のごとし。
1512年永正9年 北条早雲(伊勢新九郎)が三浦道寸攻略のために築城。
1526年大永6年 安房の里見氏が鎌倉に乱入し、初代城主氏時が戸部川(現柏尾川)のほとりで防戦。(前前回の玉縄首塚周辺参照)
1561年永禄4年 上杉景虎(謙信)が小田原を攻めあぐみ鶴岡八幡宮へ参拝し、管領になった報告をしようと鎌倉に引き返したとき、2代城主綱成の玉縄城を攻略しようとしてまたも果たせず越後へ引き返した。
1569年永禄12年 小田原攻めのとき、甲州勢は玉縄城北方を素通りし、藤沢の大谷氏の砦を落とす。
1590年天正18年 豊臣秀吉の小田原攻めのとき、4代城主氏勝は山中城に援軍したが落城したことを恥じ玉縄城に籠城。このとき秀吉の命で徳川家康は氏勝の叔父にあたる大応寺(前回登場の龍宝寺)の住職良達を通して降伏を説得し、開城となった。玉縄城はその後水野正忠に預けられたが1619年元和5年廃城。
♪城破れ敗れ咲き遅れたる山椿 茫洋
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