照る日曇る日第116回&ふあっちょん幻論第19回
小学館から出ている「日本の歴史」シリーズの第3巻飛鳥・奈良時代編であるが、先の2巻と同様最新の学説や知見が随所に盛りこまれており、なかなか勉強になる。
本書では、5世紀から8世紀までの倭と日本の歴史を振り返りながら、特に中国との相関関係についてくわしく述べている。
例えば国家権力にとって重要な人民の時間管理の道具である暦にしても、百済経由の中国暦の丸投げが長い間使用され、日本が独自の暦を持つのは17世紀末の渋川春海による貞享暦の完成を待たなければならなかった。
判子も中国の文化で、日本がこれを体系的に導入したのは、邪馬台国から500年近く遅れてであったという。それが平成のいまになっても存続していることに驚くほかはない。
7世紀の後半の白鳳時代になると、飛鳥時代に朝鮮半島を経由して中国から移入された仏教が隆盛し、地方の豪族たちは郡家と寺院をセットで建立することに血道をあげるようになる。仏教は宗教のみならず当時の最新先端知識や科学技術を満載した総合文化であったから、彼らはその受け皿としての寺院を用意せざるをえなかったのである。
火葬もこの頃の仏教ブームに伴って行なわれるようになり、大宝2年702年、持統太上天皇がはじめて彼女の意志でこれを敢行した。
ファッションについても中国の影響が大きく、パリやミラノやニューヨークではなく、唐風アラモードがおしゃれなスノッブたちを圧倒的にリードした。
大宝律令における位階と服制もこの唐風を全人民に強制しており、当時の人々が上着を左前にして着ていたのを唐風の右前にしようとしたが、なかなか定着しなかったそうだ。
当時の人々は麻布製の下着と上着をいずれも2ピースで男女とも身につけ、季節に応じて重ね着していたようだが、それまでの国風のステテコのようなボトムを、中国風の袴に変更せよとの大宝律令の通達に対しても抵抗があったようである。
このように7世紀まで朝鮮半島を向いていた倭人たちの意識は、大宝律令の施行と同時にいっせいに中国標準に切り替えられ、すべてにおいて中国を視野に収めたグローバルな世界観が確立していった。
倭が日本へと変身したのは8世紀の初頭で、ちょうど「日本書紀」が編纂されていた国史創生の時代である。7世紀における東アジアの激動が、倭の国家整備をうながし、その過程で芽生えた国家意識が、日本という国号を誕生させたのである。
ある日の午後妻に別れを告げに来し瓦斯屋の青年故郷で縊る 亡羊
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