鎌倉ちょっと不思議な物語114回
「十二所地誌新稿」にまたまたいう。
明治初年、地制改革のときは、わが十二所村の名主は啓左衛門翁であった。
山林、田畑の実測に役人が来るというので、村人はまた大江広元公の墓が見つかるとうるさいからと、若衆たちが集まって墓をひっくり返しに行ったという話が残っている。
その証拠にはしばらくは浄明寺胡桃谷に笠石(五輪塔の上部)が落ちていたというのである。その後石はぜんぶ元の山の頂に運び上げて造立しなおし、当時のままに復元してある、と書かれているのが写真の五輪塔である。
その現物を見てもわかるように、700年の星霜を経て文字は消えている。しかしこのあたりに住宅が立ち並ぶ「しばらく前までは、胡桃山の頂上に大きな石塔があるのが村人にはよく見えた」とあるからには、私が想像したとおり、この場所に墓を作れと命じたのは、麓の屋敷に住む大江広元自身であるに違いない。
さらに「十二所地誌新稿」に、「塔から少し下ると谷あいの窪みを地ならしして一畝ばかりの平地がある。たぶん持仏堂でもあったと思われる一隅に、石を切り開いた所か塚のごときものがあるが、これが果たして広元公のものと関係ありやなしや」
と書かれているのがもうひとつの写真である。現在小さな稲荷の社に成り果てているが、それは近世の事であり、私の想像では、これも鎌倉時代に大江広元を祭った場所に違いない。
♪春の宵近江の牛を食べにけり 亡羊
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