鎌倉ちょっと不思議な物語113回
「十二所地誌新稿」にまたいう。
扇が谷の大倉山に大江広元の墓と称するものが存するが、それが本物ではないことは今日では定説になっている。大倉山のそれは規模から見ても大名のものであることは間違いがなく、一説には北条義時の墓と伝えられる。
しかし本地民(この表現は懐かしい!)の伝えている墓は胡桃山の山頂にある。
塔は南してやや右にねじれている。明王院の地誌に「大江広元公の墓所は五大堂より戌亥に当たり、山頂の墓まで二丁余あると。これをもって真と致す由」と記されているからこれは確実な記録である。
一時は塔の大部分を谷に落としてしまって、一層を残すだけであった。それは村人も墓を教えようものなら上から役人が来てむつかしいことをいってやりきれない。そのうえ人夫など煙草銭くらいで使われてしまうので、知らぬ存ぜぬの一点張りで通してしまったという。
島津の家老はこのまま帰国することもできないので、役目の手前困り果てたという。そこで八幡前の大石某という人が今の法華堂に不明の墓があるので、役人と相談してこれを広元の墓と定めて帰国した。これは十二所の小長井勘左衛門が若いときの話で、今から180余年前のことであった、というのである!
♪流れている水の中ではオタマは育たない子供も同じである 亡羊
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