鎌倉ちょっと不思議な物語83回
「本朝高僧伝」によれば、東勝寺は13世紀の前半に三代執権の北条泰時が創建し、開山は退耕行勇となっている。
はじめ禅密兼修で、のちに純粋の禅となったかなりの大寺であったが、元弘三年1333年、新田義貞に攻められた北条高時以下の一族郎党およそ800人がこの寺に立て籠もり、火をかけたのちに切腹して果てた。
これが有名な“いちみさんざん”鎌倉幕府の滅亡である。
頼朝一族をはじめ私の大好きな三代将軍実朝や名だたる名門氏族を次々に陰謀によって滅ぼした陰険で暗い北条政権は、今は、この谷戸のいちばん奥まった暗いやぐらの奥にひっそりと眠っている。
なんでもあの俳優の高倉健氏の先祖がこのとき滅んだ北条一族ゆかりの人らしく、年に一度は以前ご紹介した宝戒寺に詣で、このやぐらに卒塔婆を立てられるそうだ。
目を凝らすと本当に真新しい“高倉”の文字があったので驚いた。
このようにいったんは破却された東勝寺だが、その後再建され、暦応五年1342年には関東十刹の第五位、至徳三年1386年には第三位の座を獲得している。
むかしむかしいずれのおほんときにか、この東勝寺の裏山には弾琴松という松があって、風に響くその松籟が尋常ではなかったという。私はぬかるんだ山道を駆け登っ東奔西走すみずみまでその名松を尋ねたが、ついに見出すことはできなかった。
参考「貫達人著鎌倉廃寺事典」
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