Sunday, May 11, 2008

川尻秋生著「揺れ動く貴族社会」を読む

照る日曇る日第124回

17年間千葉博物館で学芸員を務めていた元昆虫少年によるこの平安時代概説は、貴族たちの和歌を歴史資料として活用したり、当時の天変地異の影響を論じたり、武士の残酷さを実証したり、考古学・歴史地理学・民俗学・植物学などの学識を自在に駆使しておもちゃ箱をひっくり返したような意外さと楽しさがいっぱい詰まった型破りの通史である。

9世紀末から10世紀はじめにかけて、天皇の朝政の場が公的な場から私室に移行する。それと期をいつにして貴族のイエが成立し、「族」から「氏」、「公」から「氏」へと社会の構成原理が移動するにつれて、権力が公正さを失い、やがて日本および日本社会に根強くはびこる公私混同の源泉がそこに生まれた、と説く著者の説は、なかなか興味深いものがある。

藤原氏と血縁関係のない宇多天皇が彼らを排除して政治の事件を握ろうと天皇の子飼いの近臣を周辺に集めようとしたが、そのホープであった菅原道真が宇多を欺き、宇多の子である醍醐天皇を廃そうと暗躍したことが、結局道真の大宰府左遷に繋がったことも、著者によって私ははじめて知った。なんのことはないアマちゃんの道真は、自分で墓穴を掘ったのである。

著者はまた、平安時代は遣唐使がつかわされ、唐風文化が吹き荒れた時代であるが、それは天皇の服装にも露骨に表われ、聖武天皇と光明皇后は神事には伝統の白服でのぞむが、重要な儀式では中国皇帝を真似たカラフルな皇帝色の衣冠を身につけるという使い分けを余儀なくされるようになった、ともいうのである。

その他、興味深いさまざまな知見がてんこもりである。

御霊信仰に篤い日本は、弘仁元年810年から3世紀半にわたって死刑が執行されなかった奇特な国であること、源氏の祖先である源義家はきわめて残虐な性格であったこと、万葉集の梅は古今和歌集で桜に変わったこと、寝殿造りの内部は昼なお暗かったが、逆に部屋からは外部がよく見えるので、このことが貴族たちを四季の移ろいに敏感にさせ、それがまた「古今集」や「源氏物語」の成立に大きな」影響を与えたこと、藤原道長の栄光と御堂流の成立は大いなる偶然の産物であること、秦氏の氏神である松尾社の祭礼では田の神を祀るための呪術的なパフォーマンスである田楽が催され、このいかがわしい田楽師たちは諸国を放浪し遍歴していた自由民であったこと、平安京は戦乱や災厄、伝染病による死者に満ち溢れ、そのためにケガレという観念が生まれたこと、と同時に天皇が支配する領域の外はケガレに満ちた空間である、というグローバルなケガレ観も誕生し、それは新羅など朝鮮半島の国々に対しては適用されたが、唐や宋など超大国中国に対してはついに適用できず、そのトラウマが現代にまで及んでいること、しかしながら悪化する新羅との緊張関係が、平安時代の王権に「日本=神国」なる奇怪な幻想を生み出し、ついに神功皇宮・応神天皇と八幡神を同体とみなして「八幡神=皇祖神」というでたらめな神国日本イデオロギーを早くもこの段階で用意していたこと、そして最後に、承和5年838年最後の遣唐使である円仁の波頭を超えた求法の旅……、

などなど、少々選択と集中性には欠けるかもしれないが、無風の時代とよく誤解される平安時代への、大胆かつ博物学的なアプローチを随所で楽しめる好著である。

♪桐藤ラベンダーわれに優しき薄紫の花 茫洋

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