照る日曇る日第123回
ここにやや通俗的ではあるがお洒落でダンディな中年の独身男がいる。そのばついちのパリジャンは次から次に女を取り替えてきままな第2の青春を満喫しているのだが、彼には目の中に入れても痛くない一人娘がいて、2人は親子の域を超えた愛と友情をわかちあっている。
父親にも少女にも恋人がいるのだが、そこに少女の親代わりの美貌と知性を兼ね備えた女性が現れ、2人は結婚しそうになる。父親との理想的な関係を壊され、父親を奪われたくないヒロインはここで一計を編み出し、それまで父親の恋人であった若い女と自分の恋人をそそのかしてお熱いところを父親に見せつけるといい加減な父親は昔の女にむらむらとなって手出してしまい、それを知って絶望したヒロインの未来の義母は自殺してしまう。
そこで、「悲しみよこんにちは」というのがこの18歳の才媛によって書かれた本作のあらすじである。
あらすじもまるで人形劇の書割みたいな荒唐無稽なものだが、もっとひどいのはそれぞれの人物のうすっぺらな造型であり、彼らがパリのカフェで茶を喫しようが、夜の酒場でダンスを踊ろうが、真昼の海岸で砂に頬を埋めようが、はたまたフレンチキスをしようが、血の気の通わない人形たちがまるででくのぼうのようにぶらぶら宙釣りになって、おされでシックなおふらんす小説の真似事をしているだけのことだ。
だいたい「その夏、私は17だった。そして私はまったく幸福だった。私のほかに、父とそのアマンのエルザがいた」などといういかにもの1行にいかがわしさを感じなかったとしたら、その人には文学的感性がないと断言したって構わないような代物なのだ。いくら18歳の若書きだって、だめなものは、いつまで経ってもだめなのである。
この小説で、ゆいいつ素晴らしいのは、「悲しみよこんにちは」という題名だが、その肝心のタイトルですらこの作品で献辞としてとりあげられているポール・エリュアールの「直接の生命」という詩のフレーズなのだから、もはやなにをかいわんやである。
♪赤青黄3色で威嚇する夜光虫のごとく3機の航空機夜空を行く 茫洋
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