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Sunday, March 22, 2009

母7周忌に寄せて

♪ある晴れた日に 第54回


真夜中の携帯が待ち受けている冥界からの便り母上の声

われのことを豚児と書かれし日もありきもいちど豚児と呼ばれたし

天ざかる鄙の里にて侘びし人 八十路を過ぎてひとり逝きたり 日曜は聖なる神をほめ誉えん 母は高音我等は低音 教会の日曜の朝の奏楽の 前奏無(な)みして歌い給えり 陽炎のひかりあまねき洗面台 声を殺さず泣かれし朝あり 千両万両億両すべて植木に咲かせしが 金持ちになれんと笑い給いき 白魚の如(ごと)美しき指なりき その白魚をついに握らず そのかみのいまわの夜の苦しさに引きちぎられし髪の黒さよ うつ伏せに倒れ伏したる母君の右手にありし黄楊(つげ)の櫛かな 我は眞弟は善二妹は美和 良き名与えて母逝き給う   母の名を佐々木愛子と墨で書く 夕陽ケ丘に立つその墓碑銘よ 太刀洗の桜並木の散歩道犬の糞に咲くイヌフグリの花 犬どもの糞に隠れて咲いていたよ青く小さなイヌフグリの花 千両、万両、億両 子等のため母上は金のなる木を植え給えり 滑川の桜並木をわれ往けば躑躅の下にイヌフグリ咲く 犬どもの糞に隠れて咲いていたよ青く小さなイヌフグリの花

Sunday, May 18, 2008

どくだみの花

♪バガテルop55&遥かな昔、遠い所で第70回

日経の「私の履歴書」に谷川雁の実兄で民俗学者の健一氏がたいへん興味深い回顧録を連載しておられる。

氏は熊本県水俣に生まれ育ったが、3歳のときに近所の寒村からやってきた田上トセという当時12歳の子守の思い出を後年になって振り返り、彼女が80歳を越える年齢で亡くなったときに、次のような心に残る歌を詠まれた。

幼き日に乳母に背負われ嗅ぎたるは洗はぬ髪の燃えたつ匂ひ

どくだみの花揉みしだかるるゆふやみの庭の匂ひに乳母恋ひにけり

乳草の葉より滴る白き汁をてのひらに受け乳母と遊びき

乳草の愛を習ひし乳母ひとり身まかりゆきし夜の果てのこと

どくだみの花や乳草の汁のしたたりは、私の少年時代の生と性のくらがりの奥でも、いつも懐かしくひっそりと匂っていた。

そういえば、私の生家でもトセさんのような存在があった。小学生の頃、バスで1時間以上も奥に入った上林村から女中さんを迎えて家族と共同生活を送っていたのである。
私たち3人のきょうだいは、年上の彼女と一緒になって家事や家業を手伝ったり、児童公園で野球をして遊んだりしたものだ。

ある日の食卓で、おりょうさんというその女性が、たぶん私の両親の仲の良さについて何気なくからかうと、普段はおとなしい父が、「こら、おりょう!」と強く叱りつけたことがあった。

思いがけない叱責に驚き、首をすくめたおりょうさんの顔が突然真っ赤にあからみ、耳や首のつけねまでもがみるみる充血していくさまを、私たち3人のきょうだいはびっくりして見つめていた。

おりょうさんは私の実家に5,6年いたはずだが、おそらく私の祖父の口利きでお見合いの話があり、結婚して幸せな家庭を築いたようにぼんやり記憶しているが、おりょうちゃん、今頃どこでどうしているだろう。


♪漆黒のアスファルトを突き破りドクダミの花今年も咲きたり 茫洋

Tuesday, December 25, 2007

ある丹波の女性の物語 第37回 大阪

遥かな昔、遠い所で第59回

 9月22日に次男が生まれた。産湯を使うと、一番大きい盥にいっぱいになるような大きな子であった。

 その後、商店街は次々店が開き、戦前の体裁がととのうようになった。
 我が家も夫の就職口もなく、店を再開しょうと私は父と大阪へ仕入れに行った。梅田の駅を降り、堺筋から難波まで市電に乗ったが、途中只1軒、山中大仏道という仏具屋の真新しい、大きな建物が目立つだけで、北から南まで一面の焼野原であった。
父がこの土地を今買っておきたいものだ、といったのを、大阪へ行くたびに思い出し今昔の感にたえぬ。

 一応商品が揃うようになってからと思ったので、他の業者より一歩おくれたけれど、履物店を再開した。おかげで、昔からの信用もあり、女の子1人をおいたけれど、花緒をたてるのが間に合わず、外へ出して頼む程よく売れるようになった。

 23年7月には長女が生まれた。父の思い通り、眞善美の3人が揃ったわけである。
 継母は相変わらず床に就く事が多かったが、夫は健康を取り戻し、店の仕事にも次第に慣れては来たが、初めての経験なので、父を頼りにし、自然父と娘が店の主流になる事が多かった。

露地裏に 幼子の声 ひびきいて
 心はずむよ おとろうる身も 愛子

戸をくれば きんもくせいの ふと匂ふ
 目には見えねど 梢に咲けるか 愛子

Monday, September 03, 2007

ある丹波の老人の話(50)最終回

ある丹波の老人の話(50)最終回

こうして幌付きの人力車に乗っているうちになんとかなるだろう、と思っておりましたが、そのうちに車夫がこの得体の知れない日本人をもてあまして「降りろ」と要求しはじめました。

私は財布からお金をつまみだして、「コレだけやるからもっと乗せろ」というたんですが、車夫は正直に20銭だけ受け取って、私を引きずり降ろしてしまいよりました。

私は途方に暮れてもう歩く元気もありまへん。しかしそのときやっと気づいて私はその場にたたずんで一生懸命神に救いを求めて祈りました。

するとどうでしょう。「その道をまっすぐ行け」という神のお告げを感じたのです。私はようやく元気を取り戻して歩きはじめました。

しばらく行くと兵隊らしき者に出会いました。兵隊は私の姿を認めるや否や銃を構えて「止まれ!」と大声で叫びました。よく見ると日本の兵隊です。
そこで訳を話すと大いに同情してくれて、電車通りに出る道を教えてもらい、無事にホテルまで辿り着くことができたんでした。

前にお話した難船の場合と同じで、これこそは私は子供のときから持ち続けた「祈れよ、さらば救われん」の実証でした。私はこれまで足掛け70年の生涯を、この恩寵の中に生きてきたことを微塵も疑ってはおりまへん。             終


――明治18年2月22日、丹波の小さな盆地に生まれたこの老人は、その晩年はホテルなどに紅い表紙のギデオン協会の聖書を贈呈することに情熱を注いでいたが、昭和37年6月21日、大津びわこホテルにおいて、信徒会の席上自分の抱負を語りつつ「イエス、キリストは………」という言葉を最後に倒れ、天に召された。

Tuesday, August 21, 2007

ある丹波の老人の話(43)

第七話 ネクタイ製造その4

小林社長は、商品を担当者にも見せ、一応は商品の優秀性を認めてはくれたんですが、値段があまるにも安いのを不思議がり、しきりに小首を傾けるのです。

そこで私は、それは私の店では他店の如く仕入れ係への高い運動料を含まない分だけ安いのである、ということを社主クリストの精神から説いて大いに小林氏を煙に巻いたんでした。

小林さんは「よく研究して返事する」ということでしたが、私は確かな手ごたえを感じておりました。

果たしてそれから数日経つと小林さんがただひとり、私の豆のような店を探すのに一時間もかかったといいながら自動車で来訪され、

「いかにもあなたの言われるとおり開店間もない私の店の仕入れ係もワイロを取っておった。そこで今後のみせしめのため、その3人の仕入れ係をかわいそうだが解雇しました。それからこれから私の店ではあなたの会社のネクタイを主として販売することにしたから、せいぜい勉強して納入してください」

とおっしゃいました。

Monday, August 20, 2007

ある丹波の老人の話(42)

第七話 ネクタイ製造その3


私が設立した東洋ネクタイ製織所は、波多野鶴吉翁が郡是を経営した精神に学び、次のような願いを定めました。

吾等の念願
1 イエスキリストを当社の社主と奉戴して日々その聖旨に従い、之を忠実に行はんことを期す。
2 キリストの教訓に従い、己の如くその隣を愛する精神を以って凡ての事を為さんことを期す。
3 善因善果、悪因悪果の教訓に従い、各自謙遜を以って修養し自己品性の向上を計る為最善の努力を為さんことを期す。
4 常に考え、常に学び、常に励み而して常に何物かを創造せんと勉むることを期す。
5 目的達成の為信仰を養い終りまで耐え忍ぶ者は救わるべしとの信念を以って前進せんことを期す。
                    株式会社 東洋ネクタイ製織所

  そうして私は、ひとえに神の御旨に叶う工場であることを期し、賀川豊彦、本間俊平その他キリスト教界名士の教訓指導を受けながら、我々のささやかな営みが主の栄光を顕す一端になることを祈りつつ前進したんでした。           

Sunday, August 19, 2007

ある丹波の老人の話(41)

第七話 ネクタイ製造その2

さて米国から帰国して早速熱心に郡是に靴下製造を勧めてみたんですが、遠藤社長、片山専務はあくまでも製糸一本槍を主張し、私のいうことなどにはてんで耳を貸しまへん。

ただしかし、たった一人取締役の平野吉左衛門氏だけは、あの温厚な人柄の氏には珍しく非常な熱意を示して私の主張に耳を傾け、その後も私にたびたび意見を求められました。

そして昭和四年、ついに平野氏を社長とする絹靴下製造会社が、郡是の傍系会社として塚口に設立されたんでした。この会社は一時期試練の苦悩を経験しましたが、現在では親会社の製糸を抜いて全郡是を背負って立とうとする勢いを見せております。

一方ネクタイの方ですが、これは前にお話したように私が米国から帰ると間もなく父が亡くなり、このとき都会の生活に敗れて乞食のようになって帰ってきた弟と共同でネクタイ製造に取り組むことにしました。

その頃、アメリカでも日本でも編みネクタイが流行しておりました。これはしごく簡単な設備で生産できますから、少額の自己資本だけで大阪都島に小さな工場を設けて創業し、その後2,3の友人の出資を得て合資会社として若干規模を拡大し、しばらくするとだいぶ業容が安定してきたので、昭和10年に資本金20万円の株式会社東洋ネクタイ製織所を設立しました。

本社は大阪におき、京都西陣にネクタイ織物工場を新築し、加工工場を東京、大阪に設け、原糸の提供を郡是に仰ぎ、染織を京都の一流工場に委託して厳密なる製品検査を行うことにしました。ネクタイ工場は織から縫製までを一貫する当時の最新システムを備えた他社に遜色のない超一流クラスで、鋭意優良製品の生産に努めたもんでした。

Sunday, June 24, 2007

ある丹波の老人の話(34)

弟はメジロ捕りが上手でメジロを売って儲けた十幾銭かの金を、後生大事にこのとき京都に持っていったもんでした。

でもこの大切なお金を含めても私は家を出るとき少しばかりの旅費しかもらわなんだので一文の無駄遣いをしたわけでもないのに、このとき財布には十二銭しかありまへんでした。

これでは昼飯をくうたら今夜の泊まり銭がなくなるので、昼抜きのままとうとう園部に辿り着いて来る時にも泊まったかいち屋という宿屋に泊まりました。

しゃあけんど十二銭ではまともな泊まり方はできまへん。

「私は胃病やから晩御飯は食べへん」というてすぐに床に入って寝ました。

しかし裏を流れている川の瀬音が昼飯も晩飯も食べないすきっ腹にひびいて、なかなか寝付かれませんでした。私はその夜の情けなさはいまも忘れることができません。

朝は宿屋がおかゆをつくって梅干を添えて出してくれました。

私はそれを残らず食べて宿銭一〇銭を払うとあとは二銭しかありません。旅館が新しいわらじを出してくれたのを、「そこまで出ると下駄を預けてあるから」と断ってはだしで出て、みちみち落ちわらじを拾ってそれをはいては歩き続けたんでした。

「第6話弟の更正 第2回」

Friday, June 15, 2007

ある丹波の老人の話(28)

しかし思わぬ副産物もありました。

このとき大勢の芸者を呼んだもんですから、私は急に芸者にもてるようになり、つきまとわれるようになりました。

当時私は三十三ですからまだ若かったし、うかうかするとこの誘惑に負けて父の二の舞になるんではないかと我ながら心配になりました。

次々に宴会に出たり、人を呼んだり呼ばれたり、押しかけ客もあったりして酒に接する機会が非常に多くなったもんですから、私は急に時間と金銭の浪費が恐ろしくなりました。

かねてから何事も波多野翁を目標とし、翁に倣っていけば間違いなしと信じていた私は、翁の信仰するキリスト教に心惹かれておりました。思えば翁が受洗されたのは今の私と同じ三十三の年でした。私もここで入信してしっかり身を固めようと思ってそれから教会通いを始めました。

私は波多野翁から洗礼を受けたいと無理をいうておったんですが、翁は突然大正七年二月二十三日に脳溢血で急逝されたんで、私はその直後の三月十日に丹陽教会の内田正牧師から洗礼を受けました。

ですから私はいわば悪魔よけにキリスト教に入ったといえばいえなくもありません。世間からもそのように見られていたようです。

思えば私は、十二歳のときに母の眼病を観音様に祈ったときから、苦しいときの神頼みさながら、稲荷様、金比羅様、座摩神社、北向きの恵比寿様と、種々雑多な神様、仏様を祈ったもんでした。

そしていずれもそれぞれ奇跡的な感応を受け、「祈らば容れられる」という私の幼稚なおすがり信仰が波多野翁崇拝と結びついて私をキリスト教に行かせたんでした。結局は行くべき時に、行くべきところに行き着いたんです!

これこそは神の摂理でした。

私は、信じることによっていかなる苦痛困難も必ずみなよろこびと感謝に代えてくださる神様のお恵みを思いました。そうして、ますます信仰から信仰へと勉め励み、取るに足らないこの身ながら、いささかでも神のご栄光を顕すことに精進し、神と人への奉仕に努力しようと決意しました。          (第四話 株が当たった話 終)

Thursday, June 14, 2007

ある丹波の老人の話(27)

振り返れば、私の貧乏は父が隠岐へ逃げた大正元年と翌二年がもっとも酷かったんですが、三年を境目に下駄屋の商売がだんだん順調に行きだして、だいぶん楽になってきよりました。

ほんでもって大正四年、五年とお話したように株で大いにもうけて「株成金」といわれるまでになったんでした。

父についてはあとでお話しするつもりですが、大正元年に隠岐に逃げたんですが、そこでも失敗して大正五年には家に帰ってきました。

この父に対して、私はまだ十分に打ち解けることはできませんでしたが、父の代に積み重ねた莫大な借金はもはや全額きれいに返してしまいました。

最初差し押さえの封印を解いてもらうときには、ずいぶん無理を言うてまけてもろうた借金もあるので、そういう向きにはあとから改めて挨拶をしたんで、いまではどっちを向いても頭のあがらんようなことはありませんでした。

私は帰ってきた父が肩身の狭い思いをせずに済むように、世話になった人には十二分の感謝をし、親戚、知友、隣近所の人たちにも私たちのよろこびをともに喜んでもらおうと、思い切った大祝いをすることにしました。

まず一石の餅を一週間かけて搗き、その頃の銘酒であった清正宗と福娘の樽を二挺買い込み、親族故旧、隣保朋友をこもごも招き、毎日芸者三四人をあげて一週間の盛宴を開きました。そうして株券や銀行の預金通帳を三宝に乗せ、「これだけが私の財産です」とみんなに公然と披露したんでした。

私はこんなことを見栄や自慢でやったんではありまへん。ましてやこれまでさんざん痛めつけられてきた債権者や困ったときになんの助けもしてくれなかった親類縁者にあてつけをしたんでもありまへん。

あのときみんなからすげなくされたのは私にとって薬やった。父の道楽が私を貧窮のどん底に陥れたことも同じく私への良薬やった。神の試練を満喫させられたからこそ、私も発奮し神も助け給うたのである。

こう思ったとき、いまではなにもかもが感謝であり、そのことへのほんの感謝の気持ちを表したいと思ったからでした。

Thursday, June 07, 2007

ある丹波の老人の話(26)

数奇な運命にもてあそばれ、しばしば逆境にさいなまれておった私ですが、いつもすくんでおったわけでもなく、たまには青年らしく私なりに熱い血を燃やして立ち上がったこともありました。

私は案外早く貧乏暮らしから足を洗うことができるようになると、だんだん世間が明るくなり、私自身にも元気が出、青年仲間からも立てられるようになりました。

その頃選挙の取締りが過酷で、町の高倉平兵衛氏などが選挙違反で検挙されたとき、私は義憤に燃えて急先鋒となり、年長者で声望のある医師の吉川五六氏を会長とし、町内青年の幹部を糾合して大いに官憲の横暴を鳴らしたもんでした。

間もなく今度は郡是応援の町民大会を開き、これには大島実太郎氏のような名士も同調し、波多野翁も演壇に立って声涙共に下る感謝の演説をされたもんでした。

そのことが優先株の引き受けを容易にして郡是の危機を救うことになったのは思いがけない副産物でした。これが二日会の発端となり、この集まりはいまも続いて市民の健全かつ有力なる世論の基礎を作っておるわけです。

Monday, May 28, 2007

ある丹波の老人の話(24)

第四話 株が当たった話その5

郡是は翌大正5年には100万円近い大もうけをして一挙に頽勢を挽回し、5月には優先株を抹消して資本金が200万円となり、将来の大飛躍が約束されて株価はグングン上がりました。

これはまったく波多野さんの手腕と徳望のしからしむるところ、私の予想はぴたり的中したわけです。

 大正5年3月の郡是株主名簿を見ると、3千余の株主中私は第25位の大株主になっておりました。

といっても私の持ち株はわずか78でしたが、このときの郡是はまだ何鹿郡以外には進出していない時期でして、私以上の24人の株主といえば、波多野さんをはじめ羽室家一党の人々、地方の素封家ぞろいです。

私などとは提灯と吊り鐘、月とスッポンの違いでした。

昨日まで借金取りに悩まされて日本一の貧乏人と思っておった身で、いったいこんなことでよいのだろうか? と私は迷いに迷い、波多野さんのところにお礼かたがた相談に行ったんでした。

すると波多野翁は、ありあわせの紙に「宥座の器」の絵をお描きになりました。

「宥座の器」というのは荀子の「宥座篇」に出ておりますが、魯の国の恒公の廟にあるもので、孔子がこれについて教えを垂れております。しかし波多野翁はおそらくその愛読書の「二宮翁夜話」に出ている記事からこの教えを述べられたんではないかと思っとります。

波多野さんは、私にこうおっしゃいました。
、
「この器は平生は傾いておる。水を注いで半ばに達すれば正しくまっすぐになる。しかしあおも注いで一杯にすれば覆ってしまう。君も自分の財産との釣り合いを考えてほどほどに株をもっとればよろしい。私などはしょうことなしに今度はぎょうさんの株をもたされて払い込みの準備などあるわけでなく、まったくこまっておる。君もいつ払い込みがあっても構わぬ程度の株をもっとるのでなくてはいけない」

Thursday, April 12, 2007

ある丹波の老人の話(18)

第三話 貧乏物語その5

続いて翌年の正月の大売出しも千客万来で、他の店からうらやまれ、「なかなかやるもんじゃ。さすがは春助の子じゃ。と人からも褒められるようになりました。父は道楽で身を誤まったんでししたが、商売は上手やったんです。

このように私の店がはやるのを見て、あれほど詰め掛けた借金取りもバッタリ来なくなりました。

差し押さえの口にはわたしはが直接行って話し合い、だいぶまけてはもらいましたがともかく皆済し、正月には封印の取れた畳の上でめでたく雑煮が祝えたんどした。

まだ借金は残っとりましたけど、誰も取立てを催促する者はなく、それどころかまだ大口三百円も残っている債権者から、「また入ったらいつでもつかっておくんなはれよ」と言われるほど、昨日の鬼も仏になって、急に融通も効きはじめたんでした。

今までは元値を切って売っていたもんですから、全然儲けにはなっとらへんのですが、とにかく商品がよく捌けて相当額の金が不自由なく融通がききだし、店の名前があちこちで話題になり、お得意先が増えたことは商人にとって絶対の強みでした。

問屋筋へも決して遅滞せず支払いを済ますことができたんで、信用は満点で先行きは明るく、まだ借金が残っていることも格別気にはなりまへんでした。

Tuesday, April 10, 2007

第三話 貧乏物語その4

ある丹波の老人の話(17)

私は「今は金がないが、けっして不義理はしないから、これだけでできるだけ多くの商品を卸してください」と十円を出して頼むと、主人は案外快く承諾して五十円ほどの下駄と下駄の緒を送る約束をしてくれました。

この勢いで第二の店、第三の店へ行き、五円ずつ金を渡して商品を送ってもらう約束をし、それが豆仁という運送屋に出荷されるところまで見届けて郷里に戻ったんでした。

それから秋祭りももう終っており、時期はずれではありましたが、私は赤提灯を五つ六つ店の軒にぶらさげて下駄の大安売りを開始し、元値を切っての大バーゲンを敢行したんでした。

案の定安い、安いと飛ぶように売れたので、私はその金を持って再び大阪に行き、前の残金をきれいに払い、今度は前金なしに前より遥かに多く三つの店から商品を卸してもらいました。

それがちょうど年に一度のエビス市に間に合い、私はまたもや元値を切ってジャンジャン下駄を売りまくりました。

毎日毎晩お客がアリのように群がり、おもしろいほどよく売れました。

そして「この町は下駄がめっぽう安いげな」という評判が立ち、福知山や舞鶴からも買い手がやって来るようになり、私の店ははやりにはやりました。

Monday, April 09, 2007

ある丹波の老人の話(16)

第三話 貧乏物語その3

これまでの概略→ 丹波の国のある老人の物語。青年時代に養蚕教師をしていた主人公は父親の借金の返済に追われてとうとう夫婦で愛媛県に夜逃げする羽目になってしまった。


私は差し押さえ残りの手回り品と売れ残りの下駄を信玄袋三つに詰め込み、駅の近くの知人の家に預けました。手元には必死で工面したお金がようやく二十円あまり、これでは松山までの旅費しかありまへん。それがほんまに心細かったんですわ。

それから舞鶴に嫁いでおる妹のことや福知山の二〇連隊に入隊しておった弟のことを思い、弟が満期退営しても帰る家がなかったらえろう困るやろ、などと思いだすと、ますます心配になって、夜逃げの決心もだんだん鈍ってきよりました。

思い余って頭のうしろに両手を組み、ゴロンと寝転んで考え込んでいたとき、ちぎれた新聞紙が枕元にあったので、何気なく目を通すと三文小説が載っていました。

そこには不思議なことに、私のように借金取りにいじめられている男のことが書かれていて、
「今はなんといわれても金は一文もねえ。ただし俺も男だ。キンタマだけは一人前のを持っているから、これでよかったら持って行け!」
と、タンカを切るところがありました。

これを読んだ私は、メソメソしている自分をふがいないと思いました。そしてこの小説の男のように、もっと図太くやらんとあかんと思ったのです。

そうだ、夜逃げなんか止めにして城を枕に討ち死にの覚悟でここに踏みとどまろう。そしてなんとかして少しでもまとまった金を手に入れよう。逃げるにしてもそれからだ、と思い直したんですわ。
そこで私は、虎の子の二十円あまりを持って大阪へ鼻緒などの仕入れに行きました。

しかし今まで取引しておった問屋へは借りがあるから顔出しができまへん。

そこで御堂筋の方へ行って別の問屋を探しました。すぐに二、三軒見つかりましたがなにしろ二十円足らずのはした金を持って虫の良い無理を言おうというんでっからどうも敷居が高うて店の中へ入れまへん。

行ったり戻ったりしていると、近くに座摩神社ちゅう立派なお宮があったので、そこへお参りしていきなり鈴をメチャクチャに鳴らして祈りました。
「どうか私を強くしてください! どうか私に勇気を与えてください!」とね。

それから、ヨーシと勢いをつけて店の前まで戻たんですが、どうにも敷居がまたげない。

仕方なくまた神社に引き返して、今度は傍にあるお稲荷さんにも祈ったんですが、やはり入れない。

また引き返して三度目を拝んでいったら、今度は入れました。