Sunday, August 19, 2007

ある丹波の老人の話(41)

第七話 ネクタイ製造その2

さて米国から帰国して早速熱心に郡是に靴下製造を勧めてみたんですが、遠藤社長、片山専務はあくまでも製糸一本槍を主張し、私のいうことなどにはてんで耳を貸しまへん。

ただしかし、たった一人取締役の平野吉左衛門氏だけは、あの温厚な人柄の氏には珍しく非常な熱意を示して私の主張に耳を傾け、その後も私にたびたび意見を求められました。

そして昭和四年、ついに平野氏を社長とする絹靴下製造会社が、郡是の傍系会社として塚口に設立されたんでした。この会社は一時期試練の苦悩を経験しましたが、現在では親会社の製糸を抜いて全郡是を背負って立とうとする勢いを見せております。

一方ネクタイの方ですが、これは前にお話したように私が米国から帰ると間もなく父が亡くなり、このとき都会の生活に敗れて乞食のようになって帰ってきた弟と共同でネクタイ製造に取り組むことにしました。

その頃、アメリカでも日本でも編みネクタイが流行しておりました。これはしごく簡単な設備で生産できますから、少額の自己資本だけで大阪都島に小さな工場を設けて創業し、その後2,3の友人の出資を得て合資会社として若干規模を拡大し、しばらくするとだいぶ業容が安定してきたので、昭和10年に資本金20万円の株式会社東洋ネクタイ製織所を設立しました。

本社は大阪におき、京都西陣にネクタイ織物工場を新築し、加工工場を東京、大阪に設け、原糸の提供を郡是に仰ぎ、染織を京都の一流工場に委託して厳密なる製品検査を行うことにしました。ネクタイ工場は織から縫製までを一貫する当時の最新システムを備えた他社に遜色のない超一流クラスで、鋭意優良製品の生産に努めたもんでした。

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