降っても照っても第42回
30度を超える猛暑の中、私は街頭で死すとも可也の悲壮な決意で東京まで出撃し、青山真治という人の「サッド・ヴァケイション」という映画の最終試写を見た。
この映画は北九州を舞台にした北九州語による北九州映画である。最近奈良での介護をフォーカスした映画がカンヌで栄冠を獲得したように、個別を深くうがつことこそが世界の普遍の地平にいたることを、このクレバーな監督は熟知しているのである。
最近の日本映画が、たとえ地方を主要な舞台としながらも、そのほとんどが本質的に「東京的映画」であることを思えば、このローカルに徹した環境設定が、冒頭に出てくる中国人密入国事件とそれが引き起こす多彩なエピソードを含めて、この映画の独自性を生み出していると思った。
次にキャメラの視点がかなりドキュメンタリー的であることも、この映画の特徴である。とりわけ冒頭の夜の密輸船のざらざらした触感と恣意的なヴィジュアル処理は映画的であるよりはテレビ的で、こういうキャメラで全編を統一していたら、という望蜀の嘆もないではない。
第3に、この映画のプロットは、かなりめちゃめちゃである。未見の観客のためにここで詳しくは書けないが、片腕のない暴力団員が出所後に6人を殺して自殺した男とか、その暴力団員が自殺したからといって、その暴力団員の知的障碍を持つ妹と共に10年間逃走する男(じつはこれが本作品の主人公)とか、バスジャック事件の生き残り家出少女とか、いろいろな訳と陰のある男女が次々に登場し、突然恋をしたり、突然殺人を犯してしまったりする。まるで荒唐無稽である。
しかし作者は(監督、脚本も青山)プロット自体はどうでもよく、そんな荒唐無稽の物語の奥底に流れている現代人の孤独と漂流感覚そのものを慈しみをもってワンカット、ワンカットなめるように描き出そうとしている。
このような手法は、かつてJ.L.ゴダールがもっと徹底的に、もっと即興的に、もっとクールに敢行したものであるが、青山はその道をふたたび歩もうとはしない。その反対に、人生の行き場を失った人たちのために、なんとなんと、新しい家族やアジア的共同体への夢やあこがれを、それがシャボン玉のような幻想であると知りつつ、確信犯的な希望をもって提示するのである。
私は「悲しい休暇」という題名の二時間を超える長大な映画を観ながら、青山真治は武者小路実篤の「新しき村」を、映画で実行しようとしていると思った。
最後に余事を3つ。
その1
この映画は、浅野忠信、石田エリ、宮崎あおい、板谷由香、中村嘉葎雄、オダギリジョーなどの豪華キャストが綺羅星?の如く出演し、それぞれ好演しているが、全員が無名の新人であったほうが原作の趣旨がもっと生きたであろう。
その2
この映画は冒頭のクレジットが、海外受けを狙ったのか日本語でなくなぜか英字の崩した手書きで出るので大変見にくかった。ただしその英語がKINNOSUKE NATUMEではなく、NATUME KINNOSUKEという順番で正しく並べてあったことに感心した。
御一新以来長い歳月が経ったのに、いまなお盲目的に西欧人の真似をして、パスポートに姓と名をさかしまに書いたりして平気な人は、どこかでアジア人としての自分を見失っている。そういう意味ではあの夏目漱石でさえ文明開化に毒されていた。
その3
これは映画とまったく関係がない感想。昨日私(たち)は、12時30分の試写の開始をきっかり5分間待たされた。試写関係者が超大物映画評論家?のOすぎ氏の到着を待っていたためである。こうした例はときどき他の試写会でも起こるが、たとえ5分間とはいえOすぎひとりのために(その理由も知らされずに)じっと我慢して待っていた数十名の小物評論家?の迷惑も考えてほしいものだ。
5分間待ってもらったお陰でOすぎは大いに助かったわけだが、同じ5分間の遅れで次の試写や新幹線に間に合わなくなった人もいたかもしれない。天才と凡人双方の利害を悪平等的に調和させるには、定時に開始するに限るのである。
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