Thursday, June 14, 2007

ある丹波の老人の話(27)

振り返れば、私の貧乏は父が隠岐へ逃げた大正元年と翌二年がもっとも酷かったんですが、三年を境目に下駄屋の商売がだんだん順調に行きだして、だいぶん楽になってきよりました。

ほんでもって大正四年、五年とお話したように株で大いにもうけて「株成金」といわれるまでになったんでした。

父についてはあとでお話しするつもりですが、大正元年に隠岐に逃げたんですが、そこでも失敗して大正五年には家に帰ってきました。

この父に対して、私はまだ十分に打ち解けることはできませんでしたが、父の代に積み重ねた莫大な借金はもはや全額きれいに返してしまいました。

最初差し押さえの封印を解いてもらうときには、ずいぶん無理を言うてまけてもろうた借金もあるので、そういう向きにはあとから改めて挨拶をしたんで、いまではどっちを向いても頭のあがらんようなことはありませんでした。

私は帰ってきた父が肩身の狭い思いをせずに済むように、世話になった人には十二分の感謝をし、親戚、知友、隣近所の人たちにも私たちのよろこびをともに喜んでもらおうと、思い切った大祝いをすることにしました。

まず一石の餅を一週間かけて搗き、その頃の銘酒であった清正宗と福娘の樽を二挺買い込み、親族故旧、隣保朋友をこもごも招き、毎日芸者三四人をあげて一週間の盛宴を開きました。そうして株券や銀行の預金通帳を三宝に乗せ、「これだけが私の財産です」とみんなに公然と披露したんでした。

私はこんなことを見栄や自慢でやったんではありまへん。ましてやこれまでさんざん痛めつけられてきた債権者や困ったときになんの助けもしてくれなかった親類縁者にあてつけをしたんでもありまへん。

あのときみんなからすげなくされたのは私にとって薬やった。父の道楽が私を貧窮のどん底に陥れたことも同じく私への良薬やった。神の試練を満喫させられたからこそ、私も発奮し神も助け給うたのである。

こう思ったとき、いまではなにもかもが感謝であり、そのことへのほんの感謝の気持ちを表したいと思ったからでした。

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