鎌倉ちょっと不思議な物語62回
大町から横須賀線の線路を境にしてそこから海岸までの一帯が材木座である。鎌倉時代に材木業者の組合=座が置かれた場所であることからこの名がつけられた。
鎌倉は明治時代から夏の避暑地として大いに活用され、まず御成に明治天皇の夏季御用邸が建てられた。それが現在の御成小学校だが、いつか書いたように大々的な発掘が行われ、中世の巨大行政センター跡地であることが初めて分かった。
当時の中西市長は当初御成小学校を鉄筋コンクリートに建て替えようとしていたのだが、市民の反対に遭ってしぶしぶ低層木造校舎に変更したが、それは大正解だった。
日本には超高層鉄筋コンクリートは似合わない。いずれ大震災が立て続けにやってくれば、私の不吉な大予言がおのおのがたの骨身にしみて理解されるだろう。
それはさておき、御成というのは、だから明治天皇の御成り通りなのである。
御成の次には、より海に近い材木座にリゾートが進出した。写真の左が正田家の別荘であったが、広大な緑の敷地は東京の本宅と同様跡形も無く取り壊されて、現在はご覧のとおり何の変哲も無い新興住宅群になった。
それから写真の真ん中の坂道を登った左手辺りに、夏目漱石一家の夏の借家があったそうだ。
夫を薬で毒殺しようとしていた(江藤淳「漱石とその時代」最終巻を参照のこと)悪妻鏡子の「漱石の思ひ出」によれば、
「小さいほんの2間かそこいらに台所のくっついている家を借りることにしました。一夏一二〇円ばかりだったと覚えております」
とあるが、当時ここいらの住民は1ヶ月二十円ほどの借家に住みながら、それをちゃっかり無知な帝都の成金貴紳たちに何層倍もの値段でふっかけて又貸しして、大もうけをしていたのである。
そんなこととは知らない漱石は、足の踏み場も無い狭い借家で雑魚寝しながら
「ここでこうやって修養しておれば、いついくら貧乏しても驚かない」などと言って、「子供たちといっしょになって海に入って泳いでいた」そうだ。
もひとつおまけの写真の日本家屋は、あの「ビルマの竪琴」を書いた竹山道雄氏邸である。
ここに立って初夏の青い空を見上げていると、「アアヤッパリジブンハカエルワケニハイカナイ」と叫んだ水島上等兵のオウムのしゃがれ声がどこかから聞こえてくるようだ。
孤高のドイツ文学者は昭和59年に亡くなったが、彼が愛したいかにも鎌倉らしい瀟洒な木造住宅は、こうやってまだ残っている。
人はすぐ死ぬが、物とその気配は、死んだ人の周辺でしばらくは残っているのだろう。
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