Tuesday, June 12, 2007

ドナルド・キーン著「渡辺崋山」を読む

降っても照っても第24回

渡辺崋山は西洋流の遠近法や近代的なリアリズム手法を独自に体得した画家、とりわけ肖像画の名手として知られている。

特に文政4年に描かれた「佐藤一斎像」、国宝の「鷹見泉石像」は江戸時代の風物を精確にスケッチした「一掃百態」と共にわが国の絵画史の記念碑的な作品として高く評価されている。

彼はモデルを熟視し、その実際の顔容に酷使する「写真」を絵画の本質と考え、その考えを実作に反映した。平安時代以来崋山までは、わが国の肖像画には結局のところ“厳格なリアリズム”は存在しなかったのである。

これらの傑作の前に立つとき、我々は一人の武士の生き生きとした裸形の存在に直面し息を呑むような思いがする。

けれども意外なことに崋山は数多くの春画も描いていたし、「私は美しい女としか寝ない」と語る享楽の人でもあった。一日に数時間しか睡眠をとらず、朝から晩まで政務と画作、そして儒教の忠孝の教えの実践に勤めていた崋山の人物像は、思いもかけず多面的な広がりをもって私たちを魅了する。

ドナルド・キーンはそんな優れた画家崋山の悩み多き、悲劇的な生涯をたどりながら、三河田原藩の家老、儒家そして蘭学者でもあった崋山の思想の歩みについて鋭い分析と的確な評価を行っている。

崋山は貧しかった。終生多額の借金があった。大切な母をはじめ妻子や兄弟の生計を支えるために、崋山は無数の絵を描き、それを売ってはわずかな給金を補い、それは彼が行政のトップに近い立場にあったときにも変わらなかった。

そうしてこの不幸なアルバイトが藩主の不名誉になると妄想した彼を、最終的には自刃にまでおいやるのである。

そして無実の崋山をそこまで追いつめたのは、人格劣悪で性陰険な鳥居耀蔵であった。

いつの時代にもこういう卑劣な男がいるものだが、耀蔵は当時蘭学者仲間の間で高い声望を誇っていた開明派の崋山の存在をねたみ、崋山が海外渡航を企てたとか、大塩平八郎に同情したとか、高野長英が書いた「夢物語」の著者であるとか、幕府を誹謗中傷したとか、あらぬ言いがかりをつけて蛮社の獄に投じる。

恩師松崎慊堂の決死のとりなしによって斬首をまぬかれたものの、崋山は田原の在所蟄居に処せられ、ここで彼の芸が身をほろぼす因果な結果をうむのである。

一夜にして幕府の仇敵とみなされた崋山の元を多くの友人知己が離れていった。

伊豆韮山に隠棲した江川太郎左衛門の沈黙は許せるとしても、赤井東海、佐藤一斎、とりわけ滝沢馬琴の卑劣な裏切りは、どんなときにも逆上しない著者の物静かな声音によってきびしく弾劾されている。

悪辣非道な鳥居耀蔵とその取り巻きによって突然名誉を汚され、地位を奪われ、収入の道を途絶された崋山はみすぎよすぎの絵を描き、これらを売らなければ生活できなかった。

しかしそのことが余りにも余りにも倫理的な彼をさらに追いつめ、ついには三界に身の置き所をなくすのである。松崎慊堂の語るとおり、「崋山は杞憂を以って罪に罹り、また杞憂を以って死」んだのである。

崋山が老母の監視の目を盗んで納屋に入り、独り腹を切り、激痛を堪えながら飛び出した腸を腹に入れてから衣装を改め、さらに短刀で首を刺して自栽して果てたのが御一新までわずか二十七年の天保十二年一〇月十一日、崋山四十九歳の男盛りであった。

「不忠不幸渡邊登」と自らが大書した墓標の下でいまも眠っているこの男を、せめて幕末の大動乱まで生き延びさせたかったと思うのは、著者だけではないだろう。

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