降っても照っても第23回
明治24年5月11日に琵琶湖の南で大事件が起こった。世に名高い大津事件である。
本書は、ロシア皇太子ニコライを警護すべき立場にありながら、突然サーベルで彼の後頭部に切り付けて負傷させた警官津田三蔵の生と死を克明に追跡する。
そこでは維新後の明治が回想され、西南戦争で名誉の負傷をした津田のトラウマが指摘され、日露開戦前の両国の関係についてもあれやこれやの記述がだらだらと書き連ねられる。
これは大津事件の犯人の犯行の真相を追究するドキュメンタリーかと思ったら、突然著者につきまとう怪しい男からの手紙が紹介される。なんのことやらさっぱりわからぬ。
ドキュメンタリーだけでは読者が退屈しそうだから、私小説風の味付けをしてエンターテインしてもらおうという著者のサービス精神のあらわれであろうか?
著者は最近大津に引っ越したそうだ。買い物に行ったついでに「此附近露国皇太子遭難乃地」なる記念碑を見つけてこの散文を書きはじめたそうだ。かねがね大津事件と津田に関心があったというのだが、ほんとうだろうか?
もしこのテーマに関心があり、その本質に本気で切り込むつもりなら、絶対にこのような軟弱な文体といきあたりばったりな論法でこのテーマを扱うはずが無いと私は思う。
巻末には津田の書簡集やら大津事件日誌やら篠田鉱造の明治百話だの多くの参考文献が羅列されているから、著者が相当の時間と労力をかけてこれを完成?させたのだろうと推察し敬意は払うが、ほとんど見るべき成果があがっていない。
そもそもこの人は詩人ではないのか。私の考えでは詩人は最高位の文学者だから、軽々に散文に手を染めてはいけない。武士はくわねど高楊枝、で純乎たる詩藻が内部生命から湧き起こるまで静かに待機していなければならない。
いくら編集者が薦めたからといって、またいくら生活に困窮したからといって、こんなくだらない小説だか歴史物だかミステリーだかご当地ルポルタージュだか訳が分からぬ駄文書きに手を出すのは、卑しくも詩人ならけっして許されることではない。これはある種のぶんがくてきな腐敗と堕落のサンプルであろう。
私だってそれなりに忙しい。こんな無内容な作文を読まされるならエルガーの交響曲をバルビローリの演奏で聴いていたほうがよほど心身が清涼されたのに、ああもったいないことをした。
もう君には、ぶんがく関係は頼まない。私もそおゆう内的必然性がないのに、いきなり下着を脱いだり、文章を書いたりしないように注意しよう。
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