降っても照っても第29回
若き日の徳川家康は父広忠の意向で今川義元の人質として差し出されたが、その途次の汐見坂で戸田正直によって誘拐され、ほんらい駿府へ行くべきところを織田弾正忠(信長の父)に売られ一時尾張城に幽閉された。天下の怪事件である。
義元の懐刀雪斎禅師は信秀の弟信広を安祥寺に攻めて降伏させ、捕虜にした信広の生命と引き換えに竹千代(家康)を織田家から奪い返すのである。落胆した信秀は嫡子信長に織田家の裁量を委ねることになる。
政治と法界と風雅の達人である雪斎は天文21年に義元と武田晴信(信玄)、北条氏康を説いて三国同盟「善得寺の会盟」を成立させたあと同24年に60歳で遷化した。そしてそれが義元の最大の不幸を招くのである。
徳川家康の祖父、松平清康も父広忠も凶手にかかって若くして暗殺されたが、その犯人を二人ながらに討ったのは植村新八郎という同じ人物であり、また二人の凶手が用いた刀は妖刀村正であった。
主君広忠を殺された天野孫次郎は暗殺を指唆した佐久間全孝に仕え、全孝が眠っている真夜中に(広忠が暗殺されたときとまったく同じ状況で)切りつけたが、どういうわけか殺害できずあわてふためいて逃げ帰ったという。
平将門の叔父五郎良文の子孫から三浦氏、上総の千葉氏、秩父の畠山氏、和田氏、大庭氏、梶原氏、土肥氏が生じた。
長尾景虎が上杉謙信を名乗るのは永禄四年に鎌倉の鶴岡八幡宮の社前で山内上杉の憲政から上杉家を継ぐことを許されたからである。
などを私は著者から学んだ。
最後に、著者は司馬遼太郎の遺風を継ぐ名文家であり、その漢語を生かした格調高い名文は歴史小説にふさわしいと思う。
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