Tuesday, June 19, 2007

福島泰樹著「中原中也帝都慕情」を読む

降っても照っても第27回

大正14年3月、恋人長谷川泰子を伴い関東大震災後の東京にやって来た17歳の詩人中原中也の帝都漂泊を絶叫詩人の著者が克明に追う内面的なドキュメンタリーである。

中也が東京に標した第一歩は、「東京府豊玉郡戸塚町大字源兵衛195番地林方」である。

1999年3月に同所を訪れた著者は、「一帯はゆるやかに神田川に傾斜していく鬱蒼とした田園地帯で、その面影はいまでも所々に残っている。あたりをゆっくり歩いてみたらよい」
と書いている。

その言葉にそそのかされた私は、突然その気になって、真夏日の早稲田3丁目を本書を片手にほっつき歩いてみた。

長谷川泰子はその著書『ゆきてかえらぬ』で「中原は早稲田に入ろうとしていましたから、下宿もそのあたりを捜しました。みつけたのは戸塚源兵衛というところ、ちょっと山に登りかける場所にあった家でした。借りた部屋は一間きりしかなかったけど、8畳くらいの広さでした」

と語っているが、その下宿跡を、30分以上の悪戦苦闘の末に、私もようやく探し当てた。

けれども福島氏が「鬱蒼とした田園地帯」と表現しているその一画は、白いお化粧をして取り澄ましたモダン住宅と無機的な高層マンションによって埋め尽くされており、99年にこの地を訪れた著者が撮影した古い真鍋家の姿もいまや跡形も無い。

午後2時の太陽光線が私の頭上からぎらぎらと照りつけ、住民の人影もまばらだ。
ほんの申し訳程度に残されている庭や樹影を除けば、もはや詩人とその運命の女の痕跡はどこにも求めることはできなかった。

神社の鳥居が光をうけて
楡の葉が小さく揺すれる
夏の昼の青々とした木陰は
私の後悔を宥めてくれる       中原中也「木陰」『山羊の歌』より

突然視野に珍しいものが飛び込んできた。

高田の馬場から神田川べりの面影橋まで下る六叉路である。大正14年の春、中也と泰子が何度も上り下りしたであろう長い坂道である。

その六叉路のひとつを少し入ったところに若い二人の愛の巣があったはずだ。当時彼らの頭上を覆っていたはずの大樹の切り株だけがまるで詩人の夢のかけらのように取り残されてあった。

旧居を下れば神田川はすぐだ。そのとき面影橋を早稲田に向かって走る都電荒川線の車輪が、青空の下でおおきな軋み声をあげた。

夏は青い空に、白い雲を浮かばせ、
わが嘆きをうたふ。
わが知らぬ、とほきとほき深みにて
青空は、白い雲を呼ぶ。

わが嘆きわが悲しみよ、かうべを昂げよ。
―記憶も、去るにあらずや……
湧き起こる歓喜のためには
人の情けも、小さきものとみゆるにあらずや

「夏は青い空に…」『山羊の歌』より

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