Saturday, June 02, 2007

レイモンド・カーヴァー著・村上春樹訳「愛について語るときに我々の語ること」を読む

降っても照っても第20回

男がアルコールとニコチンと女を知ることは、つまりは人生を知ることだ。しかしそれは人生の毒を知ることでもある。

本書は十二分に毒が回ったカーヴァー自身の、酒と愛と辛苦と労働の日々を記念する短編集である。

とりわけ表題作は生を串刺しにするような痛々しい鋭さが印象的だ。

二組の夫婦、四人の男女の愛の形が次第に浮き彫りにされ、それぞれが現在問題なく享受しているはずの愛の居場所がじつは虚構のものであることにいやおう無く気付かされていく。

しかし私がいちばん好きなのは、加洲クレセント・シティの散髪屋での些細な出来事を描いた「静けさ」という1篇である。

ここには泣きたくなるような人生への哀切な手触りが確かに存在している。

それにしてもレイモンド・カーヴァーの小説にはどうしてこれほど多くの飲酒のシーンが出てくるのであろう。

彼は酒を浴びるほど飲むそのわずかな合間に小説を書いていたに違いない。

しかし全編アルコールまみれ、全身アルコールまみれのやけっぱちの苦界からカーヴァーは奇跡的に帰還した。そして珠玉の名品を我々に残してくれた。

アルコールといえば、私は04年の5月、神戸の北野坂でたった1口のビールを干した途端に意識を失った。あのとき確かに私も全身に毒が回っていたのだ。

人間はいつ死ぬものか知れたものではない。兼好法師が語るようにそれは突然背後から襲い掛かるのである。

あれから3年が経った。けふも窓際でうるさいほど鳴く鶯の声を耳にし、昨夜は闇に飛ぶヘイケボタルの小さな輝きを今年初めて目にすることができたこの喜びを、改めて天に感謝せずにはいられない。

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