Wednesday, June 13, 2007

「私が独裁者?モーツァルトこそ!」チェリビダッケ音楽語録を読む

降っても照っても第25回

「農夫が朝歌を歌うとき彼は純な音楽をやっている。彼は今日という朝がいかに美しいかを歌う。ここに芸術のもっとも深い意味がある」
「どんなテンポも表現の豊かさによって定義される。速度によってだけでなく」

「フルトヴェングラーはどんなテンポでも、間違ったテンポでさえ納得できた唯一の指揮者である」

「音楽史全体の中で、垂直に記された楽譜を、つまり同時的に生ずる音響現象の総体を、水平の流れやテンポに置き換えるそのやり方を理解していた唯一の指揮者がフルトヴェングラーである」

「カラヤンは大衆を夢中にさせるやり方を知っている。コカコーラもしかり」

「ロリン・マゼール、カントを読む2歳の子供だ」

「トスカニーニは純粋な音符工場だった」

「さてと、ムターさん、あなたがヘルベルト・フォン・カラヤン氏から学んだことをすべて忘れなさい」

「ジェシー・ノーマンは凄い声だが教養の香りがない。ポエジーの感覚がない。どこか別の惑星のような声だ。Rシュトラウスの「4つの最後の歌」はまるでゴビ砂漠の春のようだった」

「ベートーベンの5番は最低クラスのアマチュアの作品だ。終楽章はまったくひどい。間違った転調に満ち満ちている。エロイカの終楽章もひどいジョークというほかはない。また第9の終楽章の合唱もサラダ以外のなにものでもない。だがそんなサラダというものはある。それがドイツ的で、ドイツ的にひびくなら我慢することが出来る」

「マーラーは音楽史の中でもっとも痛ましい現象のひとつだ。彼は格好良く始めるがそうしたらもうやめられない男だ。いつも嘘ばかりついてきた無性格な男、つまりは人非人にすぎない。彼の交響曲第5番の第1楽章を理解したと主張するものはほら吹きで詐欺師というほかはない。マーラーなんかいなくってもまったく気にならないね」

「ストラビンスキーはディレタントの天才にすぎない。彼は生まれつき忍耐力に欠けていた。彼はこの欠陥をいつも新しい形式で補った。だから彼の音楽は様式感に欠けるところもあるわけだ」

「チャイコフスキーは真の交響曲作曲家であり、ドイツでは未知の偉大な男である。ブラームスは交響曲第1番の終楽章の冒頭のコラールでトロンボーンを用いたが、これは素人くさいやり方だ。チャイコフスキーならそれをどんなすばらしいやり方で聴かせたことか!」
「ブルックナーが存在したという事実は、わたしにとって神のもっとも大きな贈り物である。彼はあらゆる時代のもっとも偉大な交響曲作曲家である。ひびきを互いに結びつけあいながら、それを宇宙にまで形成できたものはブルックナー以外にいない」

「普通の人間にとって時間は開始と同時にはじまる。だがブルックナーの時間は終ったあとにはじまる。彼のフィナーレは全て神々しい。それは別の世界への希望、救済の希望、もういちど光をたっぷり浴びるよろこび、それは彼の音楽以外のどこにもない!」

「この男は死ぬまでとても孤独だった。彼があれほど多くの美しいものを生み出したのは自分の死を超えているということの答えだ」

「ベルリン・フィルハーモニー管弦楽団はすばらしい。アメリカ流の打てば響くヴィルトーゾ風のオーケストラだ。しかしフルトヴェングラーの厚みのある響き、あの純ドイツ風の響きはどこへ行ったのか?」

「ウイーンフィルは凡庸だ。音楽の生き生きとした流れというもの、主題の展開や織り成し、また構造というものをまるで理解していない。ひどいごった煮ですべてはメゾフォルテだ。たんなる砂糖漬けの果物だ」

「わたしを不幸にするものは他人の不幸である」


「楽の音は美を真実に導く。音楽とは自由の体験以外の何者でもない」


―セルジュ・チェリビダッケは1996年8月14日に死去した。彼の墓はパリ郊外のラ・ヌーヴィル・シュール・エソンンヌにある。

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