照る日曇る日第180回
「悪い奴ほどよく眠る」の3年後、黒澤はまたしても悪の問題を取り上げた。「天国と地獄」である。
丘の上の天国には、成功した資産家がたのしげに暮しており、日の当たらないその麓では、貧民たちの地獄が横たわっている。日常をあくせくと生きるだけの庶民の中には、豊かな富を持つ資産家に強い憧れを懐くと同時に、激しい嫉妬を覚える者もいる。
「ちくしょう、あいつらだけがどうしてあんなに安気にやっているんだ。おらっちは豚のように生きるしかすべがないのに」
隣の芝生は輝くばかりの緑に見える。その住人の心の輝きは芝生の色とは無関係であるにもかかわらず。
けれども、自他の貧富の差という一面的な物差しを、自他の存在価値すべてにまで拡大して解釈するという妄想にとらえられ、あまつさえその天秤の均衡を自分に優位な水準にまで実力で奪還しようする衝動につき動かされる人たちは、いまもむかしも雨後の筍のごとく繁殖している。
どうしても幸福になれないと知った者は、幸福な者をねたむだけでは我慢できず、自分と同じ不幸の仲間に引きずり降ろしてともに泥沼に這いずりまわることをこいねがう。この映画の誘拐犯人もそういう種類の人物なのだろう。悪知恵を巡らせ、悩み多き三船取締役をたいそう苦しめるが、もっと知恵のある正義の人たちが大活躍して、「やはり正義は悪に勝たないわけにはいかない」てなところを黒澤流に見せつける。前作の「悪い奴ほどよく眠る」の落とし前をつけた格好になっている。
そんな具合でこの犯罪の輪郭は頭の中では理解できる。また、かっこいい山崎努犯人がシューベルトの鱒の旋律とともに登場するシーンや、疾走する新幹線、鎌倉の腰越港、江ノ電鎌倉高校付近、横浜黄金町の魔窟などのロケシーンも迫力があるし、全編白黒なのにたった1か所だけのカラー場面、そして鮮烈な光と影の対比などなど、見どころは数多いし第1級のサスペンスドラマであることも否定できない。
大詰めのドン・ジョバンニの地獄落ちを思わせる三船山崎対決シーンも大迫力だ。にもかかわらず、この長い大捕物を見終わったあとも、いったどうしてこの憎悪に満ちた白哲のインターン青年が少年を誘拐し、3000万を強奪せずにはいられなかったのかはてんでわからない。犯行動機の必然性がまるで描かれていないからである。黒澤観念論映画にありがちな欠陥だろう。
♪頭から雌に食らわる幸せかな 茫洋
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Friday, October 24, 2008
Monday, June 02, 2008
海に浮かぶか博物館
勝手に建築観光30回
昨日は舞踊家大野氏のお名前を間違えてしまった。一男ではなく大野一雄が正しい。お詫びして訂正いたします。さて本日の話題は建築です。
菊竹清訓(きくたけきよのり)は、悪名高き江戸東京博物館の建築家としてあまねく知られている。一目吐気と眩暈をもたらすその鈍重嘉魁偉な外観にけおされて、私は数年前に開催された「蕪村展」いらい当地に足を踏み入れることができずにいる。こうなれば一種の建築公害といえるのではないだろうか。
ところで若き日の菊竹清訓は、六本木の国立新美術館を遺して先般物故した黒川紀章とともに、建築におけるメタボリズム(新陳代謝主義)を提唱し、黒川は中銀カプセルタワーを菊竹は上野ソフィテル東京を作った。
メタボリズムというのは、人間の体は60兆個の細胞でできており、そのうち1秒ごとに1000万個が死滅して新しい細胞に生まれ変わっている。ミクロで見れば人間は2ヶ月余りでまったく新しい存在に再生していることになる。ゆえにこの新陳代謝が終わるときが生命の終焉であるからして、建築家も都市や建築が死なないように、社会や時代に合わせてさながら生物のように千変万化させようと考えたわけだが、これこそ高度成長の60年代にふさわしい、なんでもありの野放図な土建屋のおぞましい思想ではないだろうか。要するにバイオロジーの思想にことよせて、どんどん壊して、どんどん建てようとしたわけである。
しかし同じメタボリズムに立脚しながら、黒川の中銀カプセルタワーがアヴァンギャルドの生真面目さを保った記念碑的名作であるのに対して、上野の不忍池の背後に不気味に聳え立つ菊竹の上野ソフィテル東京は、江戸東京博物館に匹敵する首都の最も醜悪な建築(ラブホテル?)のひとつであろう。周囲の景観を台無しにする夜郎自大のあのおぞましいビルジングをおっ立てることなぞわれひとともに容易にできるものではない。一日も早く取り壊してほしいいものである。
ところがフランク・シェッツイングのベストセラー「知られざる宇宙」によれば、菊竹清訓は都市のユートピアの専門家であり、彼が設計した江戸東京博物館はプラグマティストとして優れた作品である、と絶賛している。
そしてフランクによれば、そのこころは、「海岸からそう遠くないところにあるこの博物館は高波が押し寄せたときには海面に浮かぶ箱舟のようになるつくりになっている」からだというのである。(559p)
1958年に世界初の浮体構造物の設計図を発表し、環境破壊をもたらす機械や工場類を海上に移してしまおうと考え、沖縄国際海上博覧会で海上都市アクアポリスの原型をこしらえた菊竹は、今を去る半世紀前にすでに今日の地球温暖化の到来を世界に先駆けて予知していたのだ。
やがて東京湾の水位が日々上昇し、洪水と下町沈没の危機が到来するであろうことを神ならぬ身にして洞察していたこの偉大なる建築家は、コンクリートと鉄とガラスの粋を尽くした醜悪なる現代版「ノアの箱舟」を両国市民のために滅私奉公製造してくれていたのである。
なるほど、そういうことだったのか、と私ははたと膝をたたき、おのれの不明を深く恥じた。
そう思って周囲を眺めると、今里隆の設計による同じように醜悪な国技館も、江戸東京博物館と軌を一にした高波漂流用大鉄傘付き海月と見えてくるから不思議なものである。
これからは建築を美的観点のみならず人類救済的観点から透視しようと改めて自戒したことであった。
知恵遅れで脳障害で自閉症の息子が弾いているショパンのワルツ作品164の2 茫洋
昨日は舞踊家大野氏のお名前を間違えてしまった。一男ではなく大野一雄が正しい。お詫びして訂正いたします。さて本日の話題は建築です。
菊竹清訓(きくたけきよのり)は、悪名高き江戸東京博物館の建築家としてあまねく知られている。一目吐気と眩暈をもたらすその鈍重嘉魁偉な外観にけおされて、私は数年前に開催された「蕪村展」いらい当地に足を踏み入れることができずにいる。こうなれば一種の建築公害といえるのではないだろうか。
ところで若き日の菊竹清訓は、六本木の国立新美術館を遺して先般物故した黒川紀章とともに、建築におけるメタボリズム(新陳代謝主義)を提唱し、黒川は中銀カプセルタワーを菊竹は上野ソフィテル東京を作った。
メタボリズムというのは、人間の体は60兆個の細胞でできており、そのうち1秒ごとに1000万個が死滅して新しい細胞に生まれ変わっている。ミクロで見れば人間は2ヶ月余りでまったく新しい存在に再生していることになる。ゆえにこの新陳代謝が終わるときが生命の終焉であるからして、建築家も都市や建築が死なないように、社会や時代に合わせてさながら生物のように千変万化させようと考えたわけだが、これこそ高度成長の60年代にふさわしい、なんでもありの野放図な土建屋のおぞましい思想ではないだろうか。要するにバイオロジーの思想にことよせて、どんどん壊して、どんどん建てようとしたわけである。
しかし同じメタボリズムに立脚しながら、黒川の中銀カプセルタワーがアヴァンギャルドの生真面目さを保った記念碑的名作であるのに対して、上野の不忍池の背後に不気味に聳え立つ菊竹の上野ソフィテル東京は、江戸東京博物館に匹敵する首都の最も醜悪な建築(ラブホテル?)のひとつであろう。周囲の景観を台無しにする夜郎自大のあのおぞましいビルジングをおっ立てることなぞわれひとともに容易にできるものではない。一日も早く取り壊してほしいいものである。
ところがフランク・シェッツイングのベストセラー「知られざる宇宙」によれば、菊竹清訓は都市のユートピアの専門家であり、彼が設計した江戸東京博物館はプラグマティストとして優れた作品である、と絶賛している。
そしてフランクによれば、そのこころは、「海岸からそう遠くないところにあるこの博物館は高波が押し寄せたときには海面に浮かぶ箱舟のようになるつくりになっている」からだというのである。(559p)
1958年に世界初の浮体構造物の設計図を発表し、環境破壊をもたらす機械や工場類を海上に移してしまおうと考え、沖縄国際海上博覧会で海上都市アクアポリスの原型をこしらえた菊竹は、今を去る半世紀前にすでに今日の地球温暖化の到来を世界に先駆けて予知していたのだ。
やがて東京湾の水位が日々上昇し、洪水と下町沈没の危機が到来するであろうことを神ならぬ身にして洞察していたこの偉大なる建築家は、コンクリートと鉄とガラスの粋を尽くした醜悪なる現代版「ノアの箱舟」を両国市民のために滅私奉公製造してくれていたのである。
なるほど、そういうことだったのか、と私ははたと膝をたたき、おのれの不明を深く恥じた。
そう思って周囲を眺めると、今里隆の設計による同じように醜悪な国技館も、江戸東京博物館と軌を一にした高波漂流用大鉄傘付き海月と見えてくるから不思議なものである。
これからは建築を美的観点のみならず人類救済的観点から透視しようと改めて自戒したことであった。
知恵遅れで脳障害で自閉症の息子が弾いているショパンのワルツ作品164の2 茫洋
Saturday, December 08, 2007
ある丹波の女性の物語 第30回 等々力
遥かな昔、遠い所で第52回
父は私達の結婚に先立ち、園部の教会員の未亡人と再婚した。
私の夫は水道橋にある統制会社につとめていたので、本郷などでは留守番をしてくれるならと、大きな家でも10円位で借りられたが、当時はもう疎開がはじまっており、安全な世田谷等々力に新居を構えた。六畳と四畳半に炊事場がついていて家賃40円であった。夫の月給80円也。家賃は綾部が負担してくれる事に決まった。
等々力はオリンピックの開催地に予定されていた所だそうで、住居は万願寺玉川神社に近く、周囲には広々とした畑が広がっていた。近所には軍需会社の社長達の邸宅が並んでいたが、私達の隣組は同じような小さい家ばかり、組長さんの家だけは、信州のお殿様の執事だとかで、応接間もある立派な家で、品の良い老夫婦が住んでいた。
綾部も主食には不自由になってはいたが、東京の食糧不足には閉口した。綾部から持ってきたものには限りがあり、馴染みの店は全くない、家の周囲は畑にかこまれてはいるが、どうして求めていいのやら。隣の奥さんに教えてもらい配給のお酒を手土産に、お芋や野菜を分けてもらう事にした。タンスに入れて持って来た衣類も、フル回転して食物に変わって行った。
東京空襲が近いと言う事で、庭に防空壕を堀り、空き地には大根等も作った。その頃は等々力にはガスも来ておらず、燃料不足で、夫は木場から一束ずつ材木の切れ端を運んでくれた。
銭湯も九品仏まで出掛けねばならなかった。等々力での楽しい思い出はあまりないが、近くの邸宅の垣根の殆どが沈丁花で、春まだ浅いうちから芳香を漂わせ、夜道を上がって来ると、むせぶような香りに包まれた。
夕焼けに空が染まる頃、万願寺さんの林に烏が群れて、やかましく鳴いた事等思い出す。
♪大雪の 降りたる朝なり 軒下に
雀のさえづり 聞きてうれしも
♪次々と おとないくれし 子等の顔
やがては涙の 中に浮かびぬ
父は私達の結婚に先立ち、園部の教会員の未亡人と再婚した。
私の夫は水道橋にある統制会社につとめていたので、本郷などでは留守番をしてくれるならと、大きな家でも10円位で借りられたが、当時はもう疎開がはじまっており、安全な世田谷等々力に新居を構えた。六畳と四畳半に炊事場がついていて家賃40円であった。夫の月給80円也。家賃は綾部が負担してくれる事に決まった。
等々力はオリンピックの開催地に予定されていた所だそうで、住居は万願寺玉川神社に近く、周囲には広々とした畑が広がっていた。近所には軍需会社の社長達の邸宅が並んでいたが、私達の隣組は同じような小さい家ばかり、組長さんの家だけは、信州のお殿様の執事だとかで、応接間もある立派な家で、品の良い老夫婦が住んでいた。
綾部も主食には不自由になってはいたが、東京の食糧不足には閉口した。綾部から持ってきたものには限りがあり、馴染みの店は全くない、家の周囲は畑にかこまれてはいるが、どうして求めていいのやら。隣の奥さんに教えてもらい配給のお酒を手土産に、お芋や野菜を分けてもらう事にした。タンスに入れて持って来た衣類も、フル回転して食物に変わって行った。
東京空襲が近いと言う事で、庭に防空壕を堀り、空き地には大根等も作った。その頃は等々力にはガスも来ておらず、燃料不足で、夫は木場から一束ずつ材木の切れ端を運んでくれた。
銭湯も九品仏まで出掛けねばならなかった。等々力での楽しい思い出はあまりないが、近くの邸宅の垣根の殆どが沈丁花で、春まだ浅いうちから芳香を漂わせ、夜道を上がって来ると、むせぶような香りに包まれた。
夕焼けに空が染まる頃、万願寺さんの林に烏が群れて、やかましく鳴いた事等思い出す。
♪大雪の 降りたる朝なり 軒下に
雀のさえづり 聞きてうれしも
♪次々と おとないくれし 子等の顔
やがては涙の 中に浮かびぬ
Saturday, December 01, 2007
ある丹波の女性の物語 第24回 修学旅行
遥かな昔、遠い所で第46回
そんな中でベルリンオリンピックがあり、日中戦争も激しさを加えて行った。
昭和12年5月には、憧れの東京への修学旅行が行われた。あらたに、伊勢神宮参拝がプログラムの最初に加えられ、東海道線を横浜へと向かった。車窓いっぱいに迫って来る富士山に感激し、横浜港では外国航路の船に胸をときめかせた。
山下公園では、この近くで私は生まれたと聞いていたので、特別のなつかしさを覚えた。
東京駅へ向かうべく、桜木町駅で待っていたら、「どこから来た」と声をかけられた。「綾部」と答えたら、「大本教か」と云われて一同大憤慨したのを思い出す。
上野駅近くの旅館から夜の自由行動で、とにかく銀座へ行こうと地下鉄に乗ったのはいいが、何丁目で下りたらいいのか分らなくて困った事もなつかしい。
東京見物の後、東照宮、華厳の滝を見て中禅寺湖畔に泊まった。新舞鶴の遊郭の娘さんが、靴下の中に内緒で百円札を入れていたのには驚いた。舞鶴は軍港景気に沸いており、沢山の娼妓さん達からのお餞別との事だった。私も近所のお土産に木彫のお盆を求め、洗濯物にくるんで小包で家へ送った。
女学生らしい学校生活もそれまで位で、追々戦時体制へと移って行くのである。
♪老祖父と 共にくぐりし 古き門
想い出と共に こわされてゆく
♪暮れやすき 師走の夕べ 家中(いえじゅう)の
あかりともして 心たらわん
そんな中でベルリンオリンピックがあり、日中戦争も激しさを加えて行った。
昭和12年5月には、憧れの東京への修学旅行が行われた。あらたに、伊勢神宮参拝がプログラムの最初に加えられ、東海道線を横浜へと向かった。車窓いっぱいに迫って来る富士山に感激し、横浜港では外国航路の船に胸をときめかせた。
山下公園では、この近くで私は生まれたと聞いていたので、特別のなつかしさを覚えた。
東京駅へ向かうべく、桜木町駅で待っていたら、「どこから来た」と声をかけられた。「綾部」と答えたら、「大本教か」と云われて一同大憤慨したのを思い出す。
上野駅近くの旅館から夜の自由行動で、とにかく銀座へ行こうと地下鉄に乗ったのはいいが、何丁目で下りたらいいのか分らなくて困った事もなつかしい。
東京見物の後、東照宮、華厳の滝を見て中禅寺湖畔に泊まった。新舞鶴の遊郭の娘さんが、靴下の中に内緒で百円札を入れていたのには驚いた。舞鶴は軍港景気に沸いており、沢山の娼妓さん達からのお餞別との事だった。私も近所のお土産に木彫のお盆を求め、洗濯物にくるんで小包で家へ送った。
女学生らしい学校生活もそれまで位で、追々戦時体制へと移って行くのである。
♪老祖父と 共にくぐりし 古き門
想い出と共に こわされてゆく
♪暮れやすき 師走の夕べ 家中(いえじゅう)の
あかりともして 心たらわん
Thursday, November 29, 2007
続・NHKが好き
♪バガテルop30
昨日NHKには多少の知性があるが、民放にはそれもなくて痴性しかないと暴論を吐いた。しかしそれにはそれなりの原因がある。ドラマにせよ、ニュースにせよ、NHKと民放では制作費のスケール、そして制作費の大元である経営母体の売り上げが違うのである。
例えば民放首位のフジテレビの06年度の総売り上げは5826億、日テレ3436億、テレ朝2511億に対して、NHKは単体でも6432億、これに加えてNHK子会社は2310億の受信料収入予算をもって世間のよいこの皆さんに純良番組を提供している。
だから、その大半が民間企業からのCM収入に依拠している民放が、もしも本気でNHKの大河番組やスペシャル番組に挑んでも、はなから勝てるわけがないのである。
もしも民放がNHKのような「世のため人のためになる番組?」を真剣につくったとしても、テレビを玩具にしながら自らも資本のペットと化しているあほばか大衆の視聴率は取れないし、取れなければ売り上げが減って会社がつぶれてしまうので、民放はますますあほ馬鹿番組の制作に血道をあげ、かくて我ひとともに文字通りの白痴となって亡国の道を疾走するしか能がないのである。
スポンサーと巨大広告代理店だけが神様である民放には、そもそも表現の自由も真実を追い求めるジャーナリズムもへったくれもはなから存在せず、普通の企業と同様の単なる熱烈な利益追求会社であるにすぎない。その点では、南京虐殺番組ひとつをとっても政府御用達のNHKのほうがまだましなマスメディアである。
聞けば、NHKの番組受信料が高すぎるからもっと安くせよ、と総務省の役人が迫っているようだが、私は年間1.5万円くらい払い続けても構わないからNHKはあまり視聴率を気にせず、いまのままでそれこそ粛々と番組つくりに精出してほしいと思っている。
問題は、あほばか番組に狂奔する民放である。
NHKは有料だが民放は無料だと思っている人がいるかもしれないが、トンでもない。06年度のテレビ広告費2兆円の実態は、すべてトヨタやサントリーや資生堂やソフトバンクなどの大企業の広告宣伝費であり、その膨大な経費の大半は、私たちが購入するカローラやウーロン茶や白つばきや携帯の価格に全額転嫁されている。
では具体的にどれくらいの金額なるのか計算してみよう。
さきほど述べたように06年のテレビ広告費はおよそ2兆円、これをわが国の総所帯数約5000万で割ると1軒当たりおよそ年間4万円を私たちは身銭を切って負担していることになる。ちなみに現在あほ馬鹿民放局は東京だと5局あるから、われらあほ馬鹿視聴者は、1局あたり年間8000円も投じてあほ馬鹿番組の制作に全面協力していることになる!
このように民放のあほばか番組は、私たちのとぼしい財布のお金を原資として、どこの誰とも知れないあほばかプロぢゅーサーとその奴隷的抑圧のくびきにあえぐ低賃金労働者たちがせっせせっせと製作しているのだから、私たち納税者ならぬ第1次スポンサーは、もっと声を大にして彼らの視聴率第1主義と拝金主義、ならびにその非人間性と低俗性と死に至るニヒリズムをテッテ的に攻撃し、「私たちが本当に見たい番組」をつくらせるようにダンコ要求するべきなのである。っっと。
もっとも「その私たち」が本当に見たい番組が、あの「オーラの泉」や「ズバリ!言うわよ」であるならば、それこそ「なにをかいわんや」なのですがね。
♪天高く鳥に告げたり残し柿
昨日NHKには多少の知性があるが、民放にはそれもなくて痴性しかないと暴論を吐いた。しかしそれにはそれなりの原因がある。ドラマにせよ、ニュースにせよ、NHKと民放では制作費のスケール、そして制作費の大元である経営母体の売り上げが違うのである。
例えば民放首位のフジテレビの06年度の総売り上げは5826億、日テレ3436億、テレ朝2511億に対して、NHKは単体でも6432億、これに加えてNHK子会社は2310億の受信料収入予算をもって世間のよいこの皆さんに純良番組を提供している。
だから、その大半が民間企業からのCM収入に依拠している民放が、もしも本気でNHKの大河番組やスペシャル番組に挑んでも、はなから勝てるわけがないのである。
もしも民放がNHKのような「世のため人のためになる番組?」を真剣につくったとしても、テレビを玩具にしながら自らも資本のペットと化しているあほばか大衆の視聴率は取れないし、取れなければ売り上げが減って会社がつぶれてしまうので、民放はますますあほ馬鹿番組の制作に血道をあげ、かくて我ひとともに文字通りの白痴となって亡国の道を疾走するしか能がないのである。
スポンサーと巨大広告代理店だけが神様である民放には、そもそも表現の自由も真実を追い求めるジャーナリズムもへったくれもはなから存在せず、普通の企業と同様の単なる熱烈な利益追求会社であるにすぎない。その点では、南京虐殺番組ひとつをとっても政府御用達のNHKのほうがまだましなマスメディアである。
聞けば、NHKの番組受信料が高すぎるからもっと安くせよ、と総務省の役人が迫っているようだが、私は年間1.5万円くらい払い続けても構わないからNHKはあまり視聴率を気にせず、いまのままでそれこそ粛々と番組つくりに精出してほしいと思っている。
問題は、あほばか番組に狂奔する民放である。
NHKは有料だが民放は無料だと思っている人がいるかもしれないが、トンでもない。06年度のテレビ広告費2兆円の実態は、すべてトヨタやサントリーや資生堂やソフトバンクなどの大企業の広告宣伝費であり、その膨大な経費の大半は、私たちが購入するカローラやウーロン茶や白つばきや携帯の価格に全額転嫁されている。
では具体的にどれくらいの金額なるのか計算してみよう。
さきほど述べたように06年のテレビ広告費はおよそ2兆円、これをわが国の総所帯数約5000万で割ると1軒当たりおよそ年間4万円を私たちは身銭を切って負担していることになる。ちなみに現在あほ馬鹿民放局は東京だと5局あるから、われらあほ馬鹿視聴者は、1局あたり年間8000円も投じてあほ馬鹿番組の制作に全面協力していることになる!
このように民放のあほばか番組は、私たちのとぼしい財布のお金を原資として、どこの誰とも知れないあほばかプロぢゅーサーとその奴隷的抑圧のくびきにあえぐ低賃金労働者たちがせっせせっせと製作しているのだから、私たち納税者ならぬ第1次スポンサーは、もっと声を大にして彼らの視聴率第1主義と拝金主義、ならびにその非人間性と低俗性と死に至るニヒリズムをテッテ的に攻撃し、「私たちが本当に見たい番組」をつくらせるようにダンコ要求するべきなのである。っっと。
もっとも「その私たち」が本当に見たい番組が、あの「オーラの泉」や「ズバリ!言うわよ」であるならば、それこそ「なにをかいわんや」なのですがね。
♪天高く鳥に告げたり残し柿
Tuesday, July 31, 2007
坪内博士記念演劇博物館とシェークスピア
坪内博士記念演劇博物館とシェークスピア
遥かな昔、遠い所で第16回&勝手に建築観光23回
私はずいぶん昔から、このあたりにちょっと気になる時代がかった建築物があることは知っていた。しかし実際にこの場所に足を運び、16世紀イギリスエリザベス朝時代の劇場「フォーチュン座」を模して今井兼次らにより設計されたこの素晴らしい博物館をとっくりと眺めたのははじめてだった。
この演劇博物館は、1928(昭和3)年10月、坪内逍遙博士が古稀の齢(70歳)に達し、その半生を傾倒した「シェークスピヤ全集」全40巻の翻訳が完成したのを記念して、各界有志の協賛により設立されたらしい。
正面舞台にある張り出しは舞台になっており、入り口はその左右にあり、図書閲覧室は楽屋、舞台を囲むようにある両翼は桟敷席になり、建物前の広場は一般席となる。坪内逍遙の発案で、このように演劇博物館の建物自体がひとつの劇場資料となっているということもはじめて知った。
中に入ると床・壁・天井の古い木目がしっとりして好ましく、アールデコ風のランプの照明も胸に迫って懐かしい。館内には小ぶりの演劇図書館もあり、古今東西の演劇関係の展示が所狭しと並べてあり、「古川ロッパとレビュー時代」や佐藤信の黒テントの回顧展、それに坪内逍遙の遺品なども展示してあった。
また入り口に向かって左手には坪内逍遙の銅像の下に
むかしひと こえもほからにたくうちて とかしし於もわみえきたるかも
という八艸道人の歌が刻まれていた。
その坪内逍遙のシェークスピア全集(第三書館から全37作の戯曲を1冊に収めた日英対訳版『ザ・シェークスピア』がたった4200円で出ている!)ほど私を楽しませてくれた翻訳はない。木下、福田、本多、小津、小田島、松岡と数多くの現代語訳が出版されているが、私がいちばん気に入っているのがこの逍遙版である。
最近の翻訳はやたら現代人に媚びるような言い回しをひねり回して巧妙である。しかしその言語生命は手垢にまみれ、すでに壊疽している、死んでいるのである。
ところが当時弟子筋の二葉亭四迷と共に近代のコンテンポラリージャパニーズを国民的に創生中であった逍遥は、その生命力みなぎる黎明期の手作りの言語を実験的に駆使しつつ、史上最大の戯曲家の世界を私たちに口述する。
さうして、その呪術的な言葉の混沌の中から立ち上がる沙翁のブッキッシュな語りが、私たちの疲弊した耳目になんと新鮮に響き渡ることだろう。
例えばあの有名はハムレットの独白、To be,or not to be, that is the questionがある日本人によってわが国ではじめて、「アリマス、アリマセン、アレハナンデスカ」(素晴らしい超訳!)と翻訳されたのは1874年(明治七年)のことである。(「ワーグマン日本素描集」岩波文庫70p)
1933年、この古今の名文句を逍遥は、
「あるべきか、あるべきでないか、それは疑問だ」
と訳した。そして私はこの二つの翻訳こそが沙翁の原義にもっとも近しい日本語ではないかと考えるのである。
ところがその同じ逍遥が1949年には、これを「長らうべきか、死すべきか、それは疑問だ」
という日本語に置き換えた瞬間に、この俗耳になじみやすい現代風の訳語が、
「生か、死か、それが疑問だ」(福田恆存1955年)
「生きてとどまるか、消えてなくなるか、それが問題だ」(松岡和子2001年)
などの妙に分かった風の一義的なフレーズに「回収!」され、同時に創世記時代の日本語の創造的混沌も完全に閉塞していったのである。
遥かな昔、遠い所で第16回&勝手に建築観光23回
私はずいぶん昔から、このあたりにちょっと気になる時代がかった建築物があることは知っていた。しかし実際にこの場所に足を運び、16世紀イギリスエリザベス朝時代の劇場「フォーチュン座」を模して今井兼次らにより設計されたこの素晴らしい博物館をとっくりと眺めたのははじめてだった。
この演劇博物館は、1928(昭和3)年10月、坪内逍遙博士が古稀の齢(70歳)に達し、その半生を傾倒した「シェークスピヤ全集」全40巻の翻訳が完成したのを記念して、各界有志の協賛により設立されたらしい。
正面舞台にある張り出しは舞台になっており、入り口はその左右にあり、図書閲覧室は楽屋、舞台を囲むようにある両翼は桟敷席になり、建物前の広場は一般席となる。坪内逍遙の発案で、このように演劇博物館の建物自体がひとつの劇場資料となっているということもはじめて知った。
中に入ると床・壁・天井の古い木目がしっとりして好ましく、アールデコ風のランプの照明も胸に迫って懐かしい。館内には小ぶりの演劇図書館もあり、古今東西の演劇関係の展示が所狭しと並べてあり、「古川ロッパとレビュー時代」や佐藤信の黒テントの回顧展、それに坪内逍遙の遺品なども展示してあった。
また入り口に向かって左手には坪内逍遙の銅像の下に
むかしひと こえもほからにたくうちて とかしし於もわみえきたるかも
という八艸道人の歌が刻まれていた。
その坪内逍遙のシェークスピア全集(第三書館から全37作の戯曲を1冊に収めた日英対訳版『ザ・シェークスピア』がたった4200円で出ている!)ほど私を楽しませてくれた翻訳はない。木下、福田、本多、小津、小田島、松岡と数多くの現代語訳が出版されているが、私がいちばん気に入っているのがこの逍遙版である。
最近の翻訳はやたら現代人に媚びるような言い回しをひねり回して巧妙である。しかしその言語生命は手垢にまみれ、すでに壊疽している、死んでいるのである。
ところが当時弟子筋の二葉亭四迷と共に近代のコンテンポラリージャパニーズを国民的に創生中であった逍遥は、その生命力みなぎる黎明期の手作りの言語を実験的に駆使しつつ、史上最大の戯曲家の世界を私たちに口述する。
さうして、その呪術的な言葉の混沌の中から立ち上がる沙翁のブッキッシュな語りが、私たちの疲弊した耳目になんと新鮮に響き渡ることだろう。
例えばあの有名はハムレットの独白、To be,or not to be, that is the questionがある日本人によってわが国ではじめて、「アリマス、アリマセン、アレハナンデスカ」(素晴らしい超訳!)と翻訳されたのは1874年(明治七年)のことである。(「ワーグマン日本素描集」岩波文庫70p)
1933年、この古今の名文句を逍遥は、
「あるべきか、あるべきでないか、それは疑問だ」
と訳した。そして私はこの二つの翻訳こそが沙翁の原義にもっとも近しい日本語ではないかと考えるのである。
ところがその同じ逍遥が1949年には、これを「長らうべきか、死すべきか、それは疑問だ」
という日本語に置き換えた瞬間に、この俗耳になじみやすい現代風の訳語が、
「生か、死か、それが疑問だ」(福田恆存1955年)
「生きてとどまるか、消えてなくなるか、それが問題だ」(松岡和子2001年)
などの妙に分かった風の一義的なフレーズに「回収!」され、同時に創世記時代の日本語の創造的混沌も完全に閉塞していったのである。
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