Thursday, December 20, 2007

より良い古典音楽演奏を求めて

♪音楽千夜一夜第30回

例えば下手な絵描きが描いた下手な絵が、3次元の絵画的空間ではなく、単なる絵の具の堆積として私たちの目に映ることがありますが、ジャンルは異なるとはいえそれとまったく同様な「展覧会の絵」現象がいま全国のコンサート会場で起こっているような気がします。

ではどうしてこういうことが起こるのでせうか?
部外者で素人の私にはよく分かりませんが、それは演奏家とりわけ指揮者の精神の内部に自分独自の音楽がないか、もしいくばくかのそれがあったとしても、それを楽員や聴衆に対して自信を持って的確に伝える能力が欠けているからではないのでせうか?

音楽の創造にとってもっとも重要なこと、どういう音楽を立ち上げ、それをどうやって外部に伝えるかということでせう。しかし現在の音楽教育や演奏の現場では、後者の音楽におけるHOWという機能を最優先するあまり、もっと重要なWHATの創造の課題がおきざりにされているのではないのでせうか。さうして苦労してせっかく手塩にかけて培養した幼く稚拙な創造の芽さえ効果的に周囲に伝達できないので、だからあれほどにつまらない演奏が日夜かくも膨大に流通しているのではないかと思うのです。

いろいろな努力と遍歴を重ねてはみたけれど、自己の音楽ヴィジョンをついに強固に確立できず、ただ楽員とのおためごかしの協調性と協奏のよろこびだけでその場しのぎの音楽をやろうとする指揮者たち(例えば小沢氏のウイーン国立オペラ就任記念演奏会におけるブルックナー9番の演奏やロストロポーヴィッチ氏との最後の「ドンキホーテ」のリハーサルにおけるテンポの設定不指示をカール・ライスター氏に指摘されても反省しない没主体的な指導性)が年々粗製乱造され、その成り行き次第のダルな演奏態度によって現代の再現芸術のレベルを日々劣化させているのではないでせうか?

この致命的な機能不全を解消する秘策はありませぬ。というのは音楽におけるWHATの創造は、音楽以外の暗黙知と広範な人生体験から生まれてくるからです。ひとりの人間としてより深く、より良く生きようとする不断の努力と研鑽からしか良き音楽家は生まれないと私は信じています。

いくら朝から晩までヤマハが買収したベーゼンドルファーを弾きまくっていても、あるいは神仏に祈って7度生まれ変わっても、所詮漢(おとこ)バックハウスにはなれないし、天才コルトーやリパッティには逆立ちしたってなれませぬ。けれどもたとえ永平寺で100年修行を積んだからと言っていい音楽家になれるとは限らないのです。

それではすべてお手上げかというとそうでもなくて、私たちは偉大な先人の音楽文化伝承の技術を丁寧に学ぶことによっていくらかはWHATからHOWへとつながるこの問題をキャッチアップできるはずです。

なぜなら演奏のエッセンスは、楽譜の解釈にあり、楽譜の解釈は楽譜の物語化、象徴化にあり、指揮者の仕事はこの独自な物語とシンボルの立ち上げと効果的な移植にあると考えられるからです。
指揮者(演奏家)は己の脳中と胸中に浮かんだ抽象的なWHATを、あれやこれやの具体的な指示へと置き換えなければなりませぬ。

いつか斉藤秀雄氏の弟子の飯森泰次郎氏が、死せる師匠の指揮法についてピアノを演奏しながら具体的に語っておりました。それは「タンホイザー序曲」の冒頭のシーンでありましたが、「ここは疲労困憊したローマの巡礼たちの思い足取り、ここは彼らにようやく希望の光が見えたかすかなよろこびの瞬間」というふうに、斉藤氏はまるで平家物語の語り部さながらに一小節ずつ弾き振りの指導を行なったといふのです。(ここでセルの演奏を参照してください)

また今は亡き朝比奈氏は、ベートーヴェンの第7交響曲の練習で、「ここは縦の線は無視してください。音は汚くても構わないから歌って、歌って、歌ってください」とまるでトスカニーニのように大フィルを叱咤しておりました。(なんというアバウト小氏との違いでありましょうか!)

さらにはクライバーやチエリビダッケやムラビンスキーやミュンシュやクーセヴィツスキーのリハーサルをご覧あれ。すべてがこの物語化と象徴化による音楽の結晶化作業の連続です。

さうして彼らが楽員に強烈に彼らの物語を解説し、象徴化へいざない、あるいは反抗する楽員を説得し、折伏する指導的言語と、その教育的指導を受けたあとの楽員による演奏は、その前後であきらかに顕著な違いがあるのです。音楽的境地の瞬間ごとの生成進化があるのです。

こうした音楽の物語化は演奏芸術における象徴化作業にきわめて忠実な手法であり、いまでもけっして古びてはいないし、教育的有効性を失ってはいないはずです。

最後に私は、楽譜と音楽は不即不離の関係にこそあっても、楽譜そのものは実は音楽演奏とも、ノイエザハリッヒカイトなんちゅう客体的な楽譜解釈による客観的な?演奏とも、さらには思い切って音楽の本質とも原理的には無関係ではないかと思うのです。

世間で信じているやうに、楽器の演奏ができることと、演奏された音楽の本質が理解されていることとはまるで関係がないので、かのジャン・クリストフではありませぬが、プロより頑是無い子供の素人のほうが演奏されたその音楽の本質を直観していることが多いように思われます。


盲目の老人が独り住む家に今年もたわわに蜜柑つけたり 亡羊

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