照る日曇る日 第79回
徳富蘇峰は1863年熊本生まれで福沢の慶応を嫌って京都に出て新島襄の同志社に学び、1887年に民友社を設立して「国民之友」「国民新聞」などの有力メデイアを発行しいわゆる平民主義を唱道した。
明治、大正、昭和の3代を生き延びた言論人にして政治家の彼は、戦時中は大日本文学報国会会長、大日本言論報国会会長をつとめ、その天皇中心主義を生涯にわたって貫いた。
いわば筋金入りの保守であるが、言論人兼政治家という点では最近の読売社主兼主筆兼3流暗躍政治家のナベツネ、あるいはその先々代の正力と同類項の言行一致型の策士である。不仲であった松方、大隈の両領収手を握らせ、念願の松隈内閣を誕生させた影の立役者こそ誰あろう国民新聞社主の蘇峰だった。
蘇峰のみならず明治の御世には、尾崎行雄、犬養毅、子規の恩人日本新聞の陸羯南をはじめ数多くの新聞記者や社主が政界に進出し、彼らの理想を実行に移そうとしていたのである。平成の御世に生きる一新聞社主が自民民主両政党の連合を企むことはそのアイデアがいかに虚妄であろうともそれをやってはいけないと誰もいうことはできない。しかし彼奴がワンワン吼えても歴史は勝手に動くだけの話だ。
さてその蘇峰が書き継いだ日記「頑蘇夢物語」の完結編「終戦後日記」が本書である。日記といっても当時蘇峰は巣鴨に収容こそされなかったが立派なA級戦犯であり、進駐軍によって監視されていたから外部には公開されないままについに今日に至ったいわくつきの日記である。
本書の前半で、著者はなぜ日本が過ぐる大戦に敗れたか執拗に自問し、自答している。蘇峰が挙げるのはまずは人物の欠乏で、上は恐れ多くも明治天皇と昭和天皇、下は桂と東條、海軍の東郷平八郎と山本五十六、陸軍の大山、児玉と山下、板垣などの人物の出来具合を月旦する。
次はルーズベルトやチャーチル、スターリン、蒋介石とわが帝国首脳のスケールの大小、さらにわが帝国の東亜民族指導の資格欠如、大和民族の先天的後天的欠陥、戦争の構想の欠落、満州から中華事変への暴走起点となった盧溝橋事件の処理方法に言及し、中国の真価を知らずに蔑視して突入した支那事変を「世界戦史上最愚劣の戦争」であったと決め付ける。
ユダヤ人と並びおよそ世界で最強の漢民族と事を構えたわが帝国の無謀と愚劣を痛罵してやまないのだが、ではかつての日清、日露と同様にわが帝国の命運を賭けた大東亜戦争を肯定し、全面的に加担し、積極的に応援したご本人の立場との整合性はいったいどうなるのだろう。
結局は自分ひとりが賢くて優秀で、自分以外の日本および日本人はすべて阿呆であったとでも言いたいのだろうか? しかも日本がこの史上最悪の戦争に突入したすべての原因は、鬼畜米英と悪辣非道なソ連の陰謀にあり、わが帝国の落ち度は皆無であると他方では断言するのだから何をかいわんや。己の過去の言動を正当化する不敵な物言いとしか思えない。もしこの人が存命ならば己と帝国の無謬に乗っかったまんまで次の戦争の準備をするだろう。
しかし後半の「百敗院泡沫頑蘇居士」と題する失敗に満ち満ちた半生の記は、伊藤、井上、松方、大隈、陸奥などとの交友や人物像、東武グループの総帥根津嘉一郎の陰謀によって手塩にかけた国民新聞を追われたいきさつなどを赤裸々に描いてじつに興味深い。
また本書の執筆当時に急激に進行しつつあった米ソ冷戦の初期の動向の観察の鋭さ、その後の世界予測の正確さは、94年の生涯をしたたかに生き抜いた硬骨漢の真骨頂をものの見事に表現しているようだ。
♪ベット・ミドラーのインタビュー アイアイアイと私が五月蝿い
♪高窓の光のどけき冬の朝妻と並んで抜き手切りたり
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