Monday, December 03, 2007

網野善彦著「無縁・公界・楽」を読む

照る日曇る日 第76回

いまから四十年の昔、「なぜ平安末・鎌倉時代に限って偉大な宗教家が登場したのか?」と都立北園高校の1生徒に問われた著者は教壇で絶句してしまう。
しかしその難問に対するおよそ10年後の回答が、中世のみならず日本史全体の書き換えをうながす「革命的な」著作の誕生につながった。それがこの「無縁・公界・楽―日本中世の自由と平和」である。

 著者はまず平安末・鎌倉は、非農業的な生業の比率が比類なく高まった時代であるという。供御人、神人、寄人など多様な職能民の集団が、天皇・神仏の直属民として、課税・関料を免除されて活発に活動し、天皇・神仏の奴婢と自称する彼らは、俗世の政治権力に対峙しつつ独自の「聖性」と権益を獲得しつつあった。

またそれと平行して、平民百姓の中にも海民、製塩民、鵜飼、山民、製鉄民、製紙民などの非農業的な生業をいとなむ人々が急増していた。

「百姓」とはその名が示すとおり、農人以外の商人、船持ち、手工業者、金融業者などの平民を多数含んでいた。彼らの多くが堺、中州、川中島、江ノ島などの都市に住み、交易、商業、流通、金融の経済活動を、時の権力から一定の距離をおきながら、独自の自由で平和で初期資本主義的生活を営んでいた。そして非農業的な彼らが生息していた場所こそが、世俗との縁が切れた「無縁」「公界」「楽」と呼ばれた空間であった。

彼らの生産物は、いったん聖なる場=「市庭」に投げ込まれてはじめて「商品」となる。そしてその商品が商品交換の手段としての「貨幣」として神仏に捧げられ、世俗の人間関係から完全に切れた「無縁」の極地とも言うべきその交換機能を果たすことになる。

わが国では、弥生時代以降13世紀までは米、絹、布など、13世紀以降は銭貨、米などがそのような貨幣の機能を果たした。
さらに貸付によって利子をとり、多くの職能民の労働力を雇用して建築土工事業をいとなむための「資本」も神仏の物として蓄積されていくが、そうした巨大な事業を推進経営できたのは中世では絶対権力から「無縁」の勧進聖、上人だけであった。

このように商業・金融などの経済活動はきわめて古くから人の力を超えた聖なる世界、神仏と深くかかわっていた、と著者はいう。

ちなみに、鎌倉時代の治承2年1178年に書かれた「山楷記」には銭を用いた出産時の呪法が紹介されている。
父親は手に99文の銭を持ち新生児の耳に「天を以って母とし、金銭99文を領して児寿せしむ」という祝詞を3度唱える。その後産婦がへその緒を切ると父親は児の左手をひらき、「号は善理、寿千歳」とまた3遍唱える。ここで乳付けが行なわれ父親はさきの銭袋を枕元において儀礼が終わる。
このように出産や埋葬に銭が使われるのは銭が生命を育む大地とつながっていた証であるという。

そして13世紀から14世紀にかけて、この「無縁」「公界」「楽」という舞台で銭貨の交換と資本蓄積によって大きな経済成長を遂げ、「悪党」や「海賊」とも蔑称された彼ら自由民たちの「重商主義」路線は、商業・金融を抑制しようとする権力者側の「農本主義」と政治的・思想的に鋭く対立することになる。

そうしてあくまでも自由を求めてやまないこの「悪人」を積極的に肯定し、自らもその渦中に身をおいた法然、親鸞、一遍、日蓮など鎌倉仏教の始祖たちがこの未曾有の乱世に陸続と登場することになった。

14世紀から15世紀にかけて禅宗、律宗は幕府と結びついてその立場を確立したのに対して、15、16世紀には真宗、時宗、法華宗もその教線を拡大し、とくに真宗は教団として大きな力を持つにいたり、都市型自由民の反逆の戦いとして知られる一向一揆の原動力となるが、最終的には「無縁」「公界」「楽」の重商主義の旗に結集した平民の初期資本主義的・原始宗教的エネルギーは、農本主義を旗印にした世俗権力(織豊政権と徳川幕府)のゲバルトによって圧殺されていったのであった。

私はこの本を読みながら、学問の厳しさを思った。
「武家と朝廷の専制と圧制と抑圧と課税にあえいでいたはずの農民に、いったいいかなる自由と平和があったのか? あれば教えてほしい」というほとんどすべての歴史研究家の嘲笑と否定的評価を、敢然と受けて立った思想家の孤独を思った。

しかし不撓不屈の独創的な反権力者によって営々と書き継がれたこの本は、「学問とは何か?」「学問には何が可能?」という私たちの問いかけに対するひときわ鮮やかな回答でありつづけている。

♪真夜中に武者共喚きて切りかかる物音がする谷戸の冬かな

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