Thursday, November 15, 2007

ある丹波の女性の物語 第14回

遥かな昔、遠い所で第36回

 叔母の夫は、結婚した当時から妾宅に子供があった。毎晩のように出かけて行く夫を見送り、夜中に迎えねばならなかったそうで、辛抱に辛抱を重ねた叔母の発病だったので、父は如何様にしてもいたわってやりたかったのであろうが、折角の新築の家に住む事もなく叔母は天国へ旅立ってしまった。

 それから後祖父は3、4年生きていたであろうか。目は全然見えなくなり、杖をつかねば歩けなかったが、芝居見物やラジオを聞くこと、レコードで義太夫を聞くことが楽しみで、娘義太夫をひいきにしていた。

「一太郎やあい」と言うのも良く聞いた。祖父は訪れた人には「家の嫁のような親孝行者はない。優しい嫁じゃ。新聞に書くように言うて下され」とよく言っていた。それが祖父の精いっぱいの母への感謝の表現だったのであろう。

やがて祖父も中風でなくなった。3、4日の患いであった。うわ言に「らいこや、らいこや」と私の名らしい事を言った。この祖父も私を心から愛してくれていたのだろうか。

 その頃、父は教会の役員になり、色々奉仕をしていた。結婚式の仲人も夫婦で何組もつとめた。私は銀行の役員の長男、小笠原和夫さんと2人で、花束を持って、新郎新婦を先導する役であった。真っ白い不二絹にレースと造花をあしらったワンピースを作ってもらい、得意になってその役をつとめた。

 銀行は勧業銀行、百三十七銀行、高木銀行等沢山あったが、家の近くの京都銀行はその頃何鹿(いかるが)銀行(何鹿郡綾部町であったから)と言い、綾部では数少ない鉄筋コンクリート造りであった。

町では一番の繁華街の四つ角にあるので、夜になると、バイオリン弾きが来て「枯すすき」等を歌って楽譜を売った。どういう訳か赤坂小梅さんが派手な着物で、レコードの宣伝に来て歌った事もある。今のようにテレビがないので、夜の街で子供達も遊んでいた。そんなコンサート?には大勢の人が集まったものである。

 何曜日かには救世軍がやって来て、太鼓をたたいて賛美歌を歌い、“あかし”(信仰告白)をした。子供達は「たあだしんでんが来た」とみんなで見に行った。夜までよく遊んだ昔がなつかしい。

 何でも珍しいものには興味があった。琴の稽古をはじめたのもその頃であろうか。小学校、女学校のお姉さんにつれられて警察の署長さんの奥さんのところへ通った。
 琴の前に座っても先まで手がとどかず、ざぶとんを重ねてもらってやっと弾けた。数え唄、松づくし等からはじまって黒髪なども習った。

「黒髪のみだれて一人ねむる夜はーーー」などと、幼い子供が無邪気に声に出して歌いながら弾じたのだからおかしくなる。署長の転勤でお師匠さんも変わったが、六段の調べや、お姉さん達の弾いた千鳥の曲など古典はいいな、と今も思う。

♪刈り取りし 穂束つみし 縁先の
 日かげに白き 霜の残れる    愛子

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