Friday, November 23, 2007

エドワード・ラジンスキー著「アレクサンドルⅡ世暗殺」を読む

照る日曇る日 第74回

ロシアを代表する人気作家エドワード・ラジンスキーが書いたロマノフ朝第12代ロシア皇帝アレクサンドル2世の治世とその暗殺を描いた、上下巻あわせて750ページのドキュメンタリー超大作である。

ロシア文学は好きだが、ソ連とかスターリンとか日ソ不可侵条約の侵犯とか、この國の暗くて寒くて陰湿きわまる国家社会の内幕には、ロマノフ朝も含めて興味も関心もなかった私だが、読んでみると非常に面白かった。

そもそもロマノフ王朝はそれまでの混乱と対立に終止符をうってかのピヨートル大帝が1682年に創生したというのだが、1725年大帝の死後この偉大なる王朝を継いだエカテリーナ1世の前身は、なんとバルト海岸に住んでいた美しい料理女マルタであるというから驚く。

エカテリーナ1世の死後、当時全権を掌握していた近衛兵に担がれて帝位を継いだのは、そのエカテリーナ1世の娘エリザベータであったが、彼女はピヨートル大帝の子ではなく、マルタの夫の子であった。
エリザベータは自分の甥を皇位継承者に任命し、このピヨートル3世に妻となるドイツの公女エカテリーナ2世を娶わせた。しかし勇猛な近衛兵アレクセイ(および近衛兵軍団)と結託したエカテリーナは、気弱な夫を暗殺して彼女の王朝を独占した。2人の間に生まれた皇子パーヴェル1世はエカテリーナの情夫アレクセイとの子供であったといわれる。

してみれば偉大なるロシア史に燦然と輝くロマノフ王朝には、じつは無名の料理女の好色な血が脈々と流れてきたことになる。ロマノフ王朝打倒を目指したデカブリストたちはこの王朝の世紀の秘密を知っていたのかもしれない。

それはともかく、この本を読むと、夭折した天才プーシキンをはじめ文豪ツルゲーネフオブローモフ、トルストイ、チエーホフ、そしてドストエフスキーが生きて愛して死んだロシアという國の文化的風土というものがなんとなく分かったやうな気になる。

さうして嘉永の黒船来航から明治維新を経て西南戦争後の、つまりは日露戦争にいたるまでのこのロシアという大國を覆っていた封建制、政治的専制、農奴制、社会的後進性などの重苦しい風圧を体感することができる。やうな気がするのである。

さらには、農奴制を廃止しただけではなく、憲法発布にも鋭意取り組んでいた「英明なツアーリ」アレクサンドル2世が、自らの保身のためとはいえ、なぜ自らの首を絞めるような進歩的な自由化改革を進めたのか、さうしてその結果ナロードニキの台頭を許し、彼らの決死的自己犠牲と革命的テロルの犠牲となって王座を血まみれにして哀れな最期を遂げるにいたったかが、私の黄昏色の薄ぼんやりした脳みそにもかすかに理解されてくるからまっこと不思議である。げに恐ろしきロシアン・ドキュメンタリズムの勝利というべきか。

アレクサンドル2世は、6度繰り返された暗殺の魔手をそのつど間一髪逃れてきたが、不撓不屈のテロリストの通算7回目の企てによって、占い師の不吉な予言どおり明治14年(1881年)3月1日ついに暗殺された。

その朝必死に外出を止める新婚で最愛の皇妃エカテリーナを「公邸で陵辱する」ことによって沈黙させ、彼は死出の旅に出るのだが、最初のダイナマイトの爆発からかろうじてまぬかれたにもかかわらず、他の複数のテロリストが待機している現場を立ち去ろうとせず、ついに2度目の爆発の犠牲者となってしまう道行は、さながら飛んで火にいる蛾のように不可解であり、もう少し賢明に振舞っていれば、隻脚を失ったとしても恐らく一命を取り留めていたに違いない。

この日皇帝のおびただしい出血で血まみれになった冬宮の大理石の廊下と階段を、靴やズボンを祖父の血で汚しながら連れてこられた13歳の少年がいた。
その少年ニキは、おびただしい血の中で皇太子ニコライとなり、成人して大津で日本の巡査のサーベルで血にまみれ、そして1917年に真っ赤な血の中でロマノフ王朝最期の皇統を絶たれるのである。

当時アリーヨシャがテロリストとなる「続カラマーゾフの兄弟」を執筆していたドストエフスキーは、アレクサンドル2世が暗殺されるわずか2ヶ月前に亡くなった。
書斎で落としたペン軸を拾おうとして重い書棚を強引に動かしたために血を吐いてその完成を見ることなく、あっけなく死んでしまったのである。
ドフトエフスキーの部屋の隣には、暗殺の実行犯たちのアジトがあり、晩年の作家はテロリストたちと交流しながら続編の想を練っていた、と著者はほのめかすが、それは恐らく眉唾だろう。

しかし著者が記録するドフトエフスキーの最期の姿は、皇帝アレクサンドルの最期と同じように私たちの胸を打つ。
死の当日、彼は流刑されたデカブリストの妻たちが昔彼に贈った福音書をアンナ夫人と息子のフェージャに差し出し、有名な「放蕩息子の寓話」を声を出して読むように頼んだ。   そしてそれが終わると、彼はこう言った。

「子供たちよ、ここでたったいま聞いたことを決して忘れてはならない。主に対する一途な信仰を守り、主の許しを決してあきらめてはならない。私はお前たちをとても愛している。しかし私の愛も、主がみずからおつくりになったすべての人々に対する無限の愛と比べると、無も同然だ。忘れないでほしい。お前たちが生きているうちに犯罪に手を染めることがあったとしても、それでも主に対する希望を失ってはならない。お前たちは主の子供であり、お前たちの父に対するように主に対してへりくだり、主に許しを乞いなさい。そうすれば主は放蕩息子の帰還を喜んだように、お前たちの悔い改めをお喜びになるだろう」

ドストエフスキーが死んだというニュースは、瞬く間にペテルブルグ中を駆け巡り、彼の住居はまさに聖地巡礼の場になった。さうして死んだ作家の顔に見えるのは死の悲しみではなく、よりよき別の生の曙光だった、と伝えられている。

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