遥かな昔、遠い所で第39回
父の訪米は父自身の人生の一大転機となった。機を見る事にさとかった父は、かねてから履物業には見切りをつけていたので、アメリカ人の家庭の洋服ダンスの中の沢山のネクタイ、婦人のかつら靴下等が、その時々の服に合わせて使用されているのに驚き、これからの自分の事業はこれだと決めたそうである。
帰国後、直ちに西陣にネクタイの製織工場を作り、資本金の多くいる靴下は、関係のある郡是製糸で作るように提言し、塚口工場が出来た。色々の曲折はあったが、ネクタイ会社も郡是と同じ基督教精神を基とし、京都に工場、大阪に本社、東京八重洲口にも支店を、後には上海にも出張所を持つまでになった。
翌昭和4年5月、家の改築をする事になり、裏座敷から始まった。座敷の天井は謡曲の声がやわらかく共鳴するようにと桐張りにしたり、炊事場は関西では珍しい板バリで、食料品の貯蔵庫として六丈位の地下室があり、水は日立のモーターで屋上のタンクに貯えられ、炊事場、風呂場、洗面所、二階のトイレ等にまで配水された。
炊事場の屋上はコンクリートの物干し場となり、当時の田舎では超モダンで、参考にと見に来る人が多かった。トイレ、風呂場のタイルも60年たった今も健在で、昔の職人の入念さが偲ばれる。
三階建ての店舗の設計図も残っていたが、母がすっかり疲れ切ってしまい、中断のままになってしまった。
その年にはアメリカから親善人形が送られ歓迎の学芸会が行われた。それぞれの生徒も市松人形を持ち寄り、西洋人形と一緒に飾り、その前で私もお遊戯をした。
綾部にデパートが出来たのもその頃と記憶する。町の呉服店3軒が合併して出来たのである。鉄筋コンクリート三階建て、その上に展望台もあった。京都府下では最初の百貨店である。中々繁盛し、日曜日等には郡是製糸神栄製糸の女工さん達で賑わった。
三階には催場があり、何の宣伝だったか市丸さんも来て、歌ったり踊ったりしたのを思い出す。勢いにのって福知山にも、エレベーターのある支店まで作るようになった。
♪うっすらと 空白む頃 小雀たち
樫の木にむれ さえずりはじむる 愛子
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