Saturday, November 17, 2007

ある丹波の女性の物語 第16回 小学校時代

遥かな昔、遠い所で第38回

 「しょうわあ、しょうわあ、しょうわのこどもよ、ぼくたちわ」

歌いながら一年生の私達は、運動会でお遊戯をした。
 昭和元年は年末の僅か6日間で、昭和2年になってしまったのである。

 その年に丹後大地震が起こった。丁度、店員さんに交じって夕食を食べていたら、電灯が「パタッ」と消え「グラグラッ」と大揺れが来た。気がついてみたらお箸をにぎったまま、番頭の兼さんにおぶさって新開地の方へ逃げていた。紫にピンクの椿柄のメリンスの羽織を着ていたから冬だったと思う。その晩は何回も余震があり、店の表にむしろを敷き火鉢を出して、大人は寝ずの番であった。

 城崎方面の被害は甚大で、家屋全壊の報が入り、丹陽教会では慰問品をつのり、父も大きな袋をしょって被災地へ出かけて行った。温泉にはいったまま死んでいる人もあったそうであるが、それについては父は多くを語らなかった。生まれてはじめての恐ろしい出来事であった。

 翌3年、春休みに両親と揃って別府温泉へいった。大阪の天保山から船に乗って出かけた。瀬戸内海の島々が見えかくれして絵のように美しかった。日本海は橋立とか高浜へ海水浴に行きよく知っていたが、陽光に光る瀬戸内の海の色や、松の美しさにどれほど感動した事か。温泉めぐり、砂風呂も楽しかったが盆地育ちの私には、船の展望台から見たあのきらめくような明るい瀬戸内の波の美しさが忘れられなかった。

 同年6月、父はロサンゼルスで開催される世界日曜学校大会に、友人と二人、丹陽教会の代員として、他の教会の信者と共に天洋丸に乗って渡米した。片道2週間位はかかったと思う。60年前の当地としては大旅行であった。

世界各国の人々と大きな輪になり手をつなぎ合ったそうである。会の後、ミラーさん等の招待で各地を見て歩いたらしい。いつ帰国したか覚えていないが、帰国後は各地で招かれて講演をした。高度な文明や、建築物の事などを語ったであろうが、ナイヤガラの瀑布、ヨセミテ公園の巨大な木の事など、神の御業(みわざ)の偉大さを話したように思う。

 私にはハワイが此の世ながらの楽園であった事を語り、是非ハワイに住まわせたい等と言った。ハワイで食べたアイスクリームやハネジューが如何に美味しかったか顔をほころばせて話してくれた。
 帰ってからは、朝はオートミルか食パン。パンも大阪の木村家から取り寄せ、M.J.Bのコーヒーをパーコレーターで沸かして飲んだ。母は、ぶどう、苺、いちじくでジャムを上手に作ってくれた。

 又、アメリカの野外礼拝堂のすばらしさに感激したようで、友人と協力して、山に大きな十字架をコンクリートで作り、その麓に基督教の共同墓地を作った。イースターにはその十字架の下で昇天祈祷会が例年行われた。今は周囲の木が茂り見えにくくなったが、当時は山陰線の車中から見える十字架は偉観であった。


♪あまたの血 流されて得し 平和なれば
 次の世代に つがれゆきたし 愛子

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